「山本五十六ってどんな人?」
もしもそう訊かれたら「映画や漫画にしたくなる人!」とわたしは答えます。
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官として、とっても有名な山本五十六(やまもと いそろく)。
彼は亡くなったあとも、映画や漫画の登場人物としてわれわれの心の中に幾度もよみがえってきました。
彼が登場する既存の映画や漫画、小説はいくつもあるのに、新しい作品がどうして次々とつくられていくのか。
その理由は山本五十六の存在が、物語をつくる人たちの心をがっちりつかむ存在だからにほかなりません。
「じゃあ、その魅力って何なの?」
山本五十六が作家魂を刺激してやまない理由を、漫画制作歴30年・いまはイラストレーターとして生活しているわたし 鍋弓わた が、彼の生涯を追うことによって徹底的に考察および分析してみました。
太平洋戦争を生きた軍人は数多いのに、なぜ山本五十六がこんなにクローズアップされるのか。
山本五十六はなぜ人気なのか。
気になる方はぜひともこの記事をご覧ください。
山本五十六の魅力を箇条書きにするなら、このようなリストになります。
- 「連合艦隊司令長官」という肩書のカッコよさ!
- 日露戦争で指を二本失くしているという、身体的な特徴。
- タバコをやめたり酒は飲まなかったり、でも甘党だったりする個性的な嗜好。
- 「やってみせ」に代表させるいくつもの名言から伝わってくる、人間的な優しさ。
- 博打(ばくち)が好きだったり逆立ちが得意だったり、まるでいたずらっ子のような少年性。
- アメリカとの戦争を心底から嫌がっていたにもかかわらず、その指揮をとらざるを得なくなってしまったドラマ性。
- 嫌がっていたのにいざ戦争が始まると真珠湾攻撃を成功させたり、飛行機を誰よりも効果的に利用してしまう知性と実行力。
- 最期は本当に戦死だったのか? じつは暗殺? 「死因が謎すぎる」と後世に思わせてしまうミステリー。
- 相反するともいえるこれらの魅力をすべて内包する複雑さ。
ね、幾重にも重なった魅力がいっぱいでしょ?
単純明快でないから、別の角度から見るたびに山本五十六の新たな一面に気づくことができる。
そうして発見された部分がまた新鮮な輝きを放つのです。
つまり、解釈の仕方がいくらでもあるんです。
一本の物語では表現しきれないくらい、作り手たちはさまざまな思いを彼に対して抱くことになります。
それを少しでも表現しようと、「自分の解釈した山本五十六像」で作品をつくるのです。
そうさせるほどのエネルギーが、山本五十六にはあふれています。
山本五十六はなぜ人気なのか。シナリオづくりの点からとくに推したいポイントは二点
わたしがこの中でもっともときめくのは「アメリカとの戦争を心底から嫌がっていたにもかかわらず、その指揮をとらざるを得なくなってしまったドラマ性」です。
さらに「日露戦争で指を二本失くしているという、身体的な特徴」も心に来るものがあります。
シナリオづくりのコツとして、「キャラクターの見た目にわかりやすい特徴をつける」というものがあります。
たくさんの登場人物を描かねばならないとき、だれがだれだか混乱しないようにするテクニックです。
つまり、目立たせたいキャラクターに眼帯をつけたり、杖を使わせたりするんですね。
具体例をあげると、宝塚歌劇団創立100周年の幕開け公演としておこなわれていた『眠らない男・ナポレオン ―愛と栄光の涯に―』に登場する政治家タレーランがあります。
北翔海莉さんが演じた政治家タレーランは、杖をつきながら舞台を歩きます。
杖に関するエピソードが本編中で語られることはありませんが、その独特の歩くしぐさが「あいつはただ者じゃない」と観る人に感じさせるのです。
登場シーンの間が空いても、杖をつきながら不自由そうに足を引きずって歩く様子さえ見れば、「タレーランだ」と観客はすぐに思いだすことができます。
身体的特徴を登場人物につけるのは、テレビや映画とは違って特定の部分・人物をアップにして映すことのできない舞台作品ではとくに有効な戦法だといえるでしょう。
群衆に埋もれてしまいかねない人物を、さりげなく目立たせることができるのですから。
星組公演 『眠らない男・ナポレオン —愛と栄光の涯(はて)に—』 | 宝塚歌劇公式ホームページ
山本五十六のこの指のエピソードは、まさにそのお約束どおりです。
主人公だったら特別さをあらわす設定として生かせますし、脇役として描く場合であっても適度に存在感をアピールできます。
軍隊を描く映画やマンガ作品は必然的に軍服の人物だらけになりますから、どの人がだれだったのか混乱しやすいのです。
そこに指という特徴があれば、「この人は山本五十六である」と海軍の人間関係をあまり知らない初心者さんにもわかりやすくなります。
しかし、ご本人は指のことを気にしていらっしゃったらしい逸話が残っています。
ですから、コツだとかテクニックだとかドライな視点で簡単にいってはいけないデリケートな要素でもあります……。
ただ、お話づくりの観点から見させてもらうと、これは五十六のキャラクターを立てる要素になるほか、「若いときから戦争に行かざるを得なかった波乱万丈の過去」を明確に伝える大切な事実です。
戦争の指揮を執ることになる人自身が、じつは戦争の被害者なんですよ!
これこそ戦争の悲劇だと思いませんか。
五十六が若いときから戦争に行っていた――。
その過去は物語の読者(視聴者)に「この人は青年のときから戦争に振り回されてきたんだ」と感じさせます。
五十六がそうだということは、五十六と同年代の人々は同じ環境で育ってきているはずだともわかります。
ならば彼の奥さんもそのはずだよねえとか、若い五十六たちを戦争に送り出した親たちは何を思っていたんだろうとか、一生に何回も戦争があるなんてイヤだなあとか、読者が当時の人たちの生きた現実へと思いをはせるスイッチにもなりえます。
もしもわたしが山本五十六の漫画をシリアスにドラマチックに描くなら、物語の主題としてメインに据えるのは「アメリカとの戦争を心底から嫌がっていたにもかかわらず、その指揮をとらざるを得なくなってしまったドラマ性」です。
さらに彼の主人公らしさを際立たせるためにも、扱いは難しいながら指のことについても盛り込んでいきたいですね。
嫌がっていたのに山本五十六は戦争の指揮を執る羽目になった……そのドラマの生まれた過程とは
山本五十六が生きた時代の日本海軍はとてもねじれた組織構造だった
山本五十六は戦争を嫌がっていたのにどうして戦争の指揮を執ることになってしまったのか。
これは日本海軍のねじれた組織構造が理由です。
山本五十六は日本海軍のすべてを思いのままに動かせる人ではありませんでした。
そんな絶対的な権力は連合艦隊司令長官に与えられていなかったんです。
連合艦隊司令長官は、艦隊を動かす実行部隊においていちばん偉い人ですが、海軍の取るべき方針を決めたり作戦を立てたりすることは原則的に許されていませんでした。
ではいったい誰が方針を決めて作戦を立てていたのか?
海軍省と軍令部です。
当時の日本海軍は「海軍省」「軍令部」「艦隊司令部」の三つの組織に大きくわかれていました。
海軍省は海軍全体の方針を決めるところです。
軍令部はそれにしたがって作戦を立てます。
艦隊司令部は軍令部の立てた作戦を実行します。
これだけ見ると単なる役割分担。
合理的にさえ思えてきますが、この組織構造には大きな問題点がありました。
それは、作戦の責任が艦隊司令部に負わされていたということです。
つまり、軍令部の立てた作戦がどれだけ不可能なものだったとしても、失敗すれば艦隊司令部が責められてしまうんですね!
「軍令部の作戦のデキが悪かったんだ!」なんていっちゃいけないんです。
ですので、軍令部と艦隊司令部の意思統一はいつもなかなかできませんでした……。
そりゃそうです。
成功する見込みのない作戦をやらされた挙句、失敗して責められるなんて誰だってイヤすぎますからね……。
山本五十六が開戦に反対していたのは海軍省にいたころのこと
「山本五十六はアメリカとの戦争をとても嫌がっていた」
こう語られるときの彼の役職は、海軍省・海軍次官です。
連合艦隊司令長官になってバリバリ指揮を執りながら「反戦! 戦争あかんで!!」と叫んでいたわけではありません。
もしも山本五十六がそんな人ならここまで人気のある人物にはならなかったでしょう。
命懸けでやっていることに対してそんな真逆の反対意見をいう司令長官に、自分の命を預けたくはありません。
単純に考えて魅力が半減です。
本当は嫌がっていた戦争なんだけど、開戦して指揮を執らざるを得なくなったときに腹をくくってガチで戦ったからこその、山本五十六の魅力なのです!
ちなみに海軍次官は海軍省のNo.2。
このときの海軍大臣は米内光政(よない みつまさ)です。
海軍大臣は海軍省のトップです。
海軍大臣・米内光政、海軍省 軍務局の局長である井上成美(いのうえ しげよし)といっしょに三人で、山本五十六は日独伊三国同盟に反対していました。
山本五十六が連合艦隊司令長官になったのは「条約反対派三羽ガラス」と叩かれた結果
山本五十六が連合艦隊司令長官になる直前のことです。
1939年(昭和14年)5月ごろ、「日独伊三国同盟を結ぼう!」と陸軍を筆頭にして日本中が熱気にあふれていました。
ですが、この同盟に海軍次官である五十六は反対しました。
当時の世界情勢からすると、もしもそんな同盟を結んでしまえばアメリカとの戦争は避けることができなくなります。
アメリカと戦争をしても日本に勝ち目がないことを、アメリカへの留学経験のある五十六は痛いほどわかっていました。
日本はアメリカと比べて資源も兵器も足りません。
ほかのおもな反対派は海軍大臣・米内光政と軍務局長・井上成美。
山本五十六も含めて全員が海軍省の所属なので、このときの海軍の方針は「同盟反対」だったんですね。
だから「そんな方針は納得できない! 方針を変えろ!」と、陸軍や無知な庶民は彼ら三人を叩いたわけです。
同盟を結んだら戦争が起こることを庶民は知らなかったのか?
庶民は陸軍にだまされた被害者なの?
いいえ、とんでもない!
じつは「同盟を結んだらアメリカと戦争することになる」――それは庶民も知っていました。
しかし、「アメリカと戦争をしても勝てない」ことをわかっている庶民はあまりいませんでした。
日露戦争が日本の華麗なる勝利で終わっていたからです。
つまりこういうこと↓↓↓

東郷平八郎による東郷ターンや丁字戦法が決まって、バルチック艦隊に大勝利!
あの大国ロシアを打ち負かしたじゃないの!
こんなに大きい実績があるのに「日本が戦争に負ける」だなんて、いまの海軍はどうしてそう思うのだろう?
戦争に消極的な海軍の者たちの考えていることが庶民は理解できません。
「アメリカは個人主義の国やから弱いんやで! 戦争が起こっても日本は勝てる!」とマスコミは積極的に報道して庶民をあおっていたんです。
そういう勇ましいことを書いたほうが、新聞がたくさん売れるんです。
ネガティブな記事より、「わたしたち日本国民はすごい」「わたしたち日本国民は強い」「わたしたち日本国民は優れている」……たとえ根拠がなくても浅くても、耳障りのよい記事を読んでいるほうが楽しいですからね。
まずかったのは、庶民がこれを娯楽として一笑に付してくれなかったこと。
本気にしちゃったんです。
庶民はマスコミを信じてしまい、「海軍は弱虫だ」と口にするばかり。
こうして海軍次官・山本五十六、海軍大臣・米内光政、軍務局長・井上成美の三人は、「条約反対派三羽ガラス」と悪口をいわれました。
「海軍の黒に近い濃紺の軍服がまるでカラスのようじゃないか」と揶揄しているんですよ。
すっごい陰湿ないい方ですよね。
現代人としてもドン引きです。
言葉だけじゃなく、このときの彼ら三人の叩かれっぷりは現代のわれわれからは想像できないほど異常事態でした。
なんと暗殺される危険があるほどに。
身の危険を感じた三人は遺書を書いて、海軍省の金庫に収めました。
五十六の家には私服の憲兵がボディーガードとしてやってきて、機関銃が置かれました。
五十六自身は「同盟断固反対」の意志を示すため、故郷である新潟県長岡市の堅正寺(けんしょうじ)にこもりました。
海軍を辞める覚悟だったようです。
このとき堅正寺の住職だった橋本禅巖(はしもと ぜんがん)和尚は山本五十六の理解者のひとりだったので、彼を優しく迎え入れました。
橋本禅巖和尚はのちに、戦死した五十六に戒名を授けることになります。
条約反対派三羽ガラスの反対もむなしく、三国同盟が結ばれてしまうのは承知のとおりです。
命の危険さえあった山本五十六は、海軍省を辞めることになりました。
連合艦隊司令長官に出世することによって……。
この人事は彼の命を暗殺からはひとまず救いました。
そして「もっとも戦争を嫌がっていた人が、起こってしまった戦争の指揮をとらねばならない」というドラマへとつながっていくのです。
山本五十六がなぜ人気なのか、プロフィールから見てみよう
山本五十六はどんな人?
ここで山本五十六のプロフィールを簡単に紹介しておきます。
物語づくりには性格や趣味など個人的な情報が大切なので、この記事の趣旨としてそちらに寄せたまとめ方にしました。

70年以上も前に、現代にも通ずるリアルな言葉を遺しちゃうなんてすごい……!
もとの名前 | 高野五十六。 貧乏士族「高野家」の生まれでしたが、32歳のときに名家「山本家」を継承したので「山本五十六」になりました。 |
あだ名 | 「五十さ(いそさ)」。 「ん」は付けずに、「五十さ」です。 「さ」は故郷・長岡の言葉で尊称を意味していたとか。 |
誕生日 | 1884年(明治17年)4月4日(金)。出生時間は正午。 |
没年 | 1943年(昭和18年)4月18日(日)。 南太平洋のソロモン諸島にあるブーゲンビル島で戦死しました。 59歳でした。 |
出身地 | 新潟県長岡市東坂之上町3丁目。 当時の住所は「新潟県古志郡 長岡本町[ながおかほんちょう]大字[おおあざ]玉蔵院町[ぎょくぞういんちょう]第三十一番戸」。 |
きょうだい | 八人きょうだいの末っ子(六男)。 |
好きなもの | 甘いもの。とくに水まんじゅうが大好き! |
趣味 | 博打(ばくち)と将棋。艦の中でも将棋を指していたそうです。 |
特技 | 逆立ちと書道。「常在戦場」の書は有名ですね! |
身長 | 159cm。どちらかというと小柄。 |
体重 | 58.5kg |
結婚歴 | あり。奥さんは士族の娘である三橋禮子(みつはし れいこ) |
子ども | あり。二男、二女のパパ。 |
備考 | 21歳のときに参加した日露戦争で、左手の人差し指と中指を失っています……。 タバコは44歳のときに辞めました。 お酒は飲みません。 |
名言 | 「やってみせ」「常在戦場」「男の修行」など。 |
立てた作戦 | 真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦 |
乗っていた有名な艦 | 巡洋艦「日進(にっしん)」、空母「赤城(あかぎ)」、戦艦「長門(ながと)」、戦艦「大和(やまと)」 |
山本五十六の性格はとても温かだった
山本五十六にはたいへん親しみやすく、人間味のあるあたたかな人柄であったという逸話が数多く残っています。
たしかに、彼を描いた映画でもそのように表現されていることが多いですね!
映画『連合艦隊』で、開戦することになったときに「かんべんですむかー!」と声を荒らげるシーンはとっても印象的です。

このイラストは映画『連合艦隊』で演じた小林桂樹バージョンの山本五十六を描いたものです。
山本五十六はよい意味で感情を隠さず、つらいときは「つらい」といい、悲しいときは「悲しい」という人だったのです。
たとえば両親が亡くなったときには「とても悲しい」という手紙を恩師に書き送っています。
米国に駐在しているときに、アメリカ人女性に「家族と離れて寂しくないのですか」と尋ねられて、「寂しいです」と答えた逸話も残っています。
このときの日本で、とくに軍人は、感情を隠していつも冷静でいてナンボですから。
山本五十六のようにはっきりと、それも聞いた人に「情けない」と思われかねない感情を素直に吐露するのがどれだけめずらしいことだったのかがわかるというものです。
山本五十六の書道の腕はプロ級
五十六は子供のころから字がとっても上手でした。
若いときからペンネームを持って、バリバリ書を書いていました。
まずは「江東陳人(こうとうちんじん)」、兵学校時代は「樵夫(しょうふ)」と名乗りました。
中年以降になると「長陵(ちょうりょう)」です。
あとは「山本五」。
「山本五十六」ではなくて、「山本五」。
それぞれの意味は以下のとおりです。
- 江東陳人:長岡に住んでいるという意味。長岡が信濃川の東岸にあることを表現した名前。
- 樵夫:山に住むきこり(樵)。
- 長陵:そのままズバリ「長岡」の地名。
- 山本五:「五」は五徳を意味していた。
山本五十六は長官としての能力も高かった
自由奔放に見えながら、軍人としても五十六は有能でした。
連合艦隊司令長官になったのは偶然でもコネでも裏口入学でもないんです。
それは彼に能力があったからこそ!
有能さは主人公にとって大切な要素のひとつです。
おもにどんな有能さかというと……
- 飛行機の兵器としての可能性に目をつけて、航空隊の組織を整えました。
- アメリカと戦争をしても勝てないことを、戦う前からよくわかっていました。
当時最先端の技術で「まだまだ使い物になるわけがない」と侮られていた航空機の可能性にいち早く気づく、頭のよい人でした。
航空隊をととのえるだけではなく、ちゃんと使いこなしました。
「ととのえる」だけでもすごいのに、「使いこなす」なんて本当の本当にすごいとしかいいようがありません。
だって当時、きちっとした使い方、マニュアルの存在しない新技術ですよ!?
どのように使ったら効果的なのか、わかりやすい前例だってないだろうに、「こんなふうにしたらうまくいくはず!」と考えて実行して、ちゃんと成功させるのだから能力の高さが伝わってきます。
しかも山本五十六が航空機の可能性に気づいたのは40歳くらいになってからなんですよね……。
アラフォーですよ、マジですごくないですか!?
これを書いているわたしも現在アラフォーですが、スマートフォンを使うことだけでも必死です。
LINEの友達登録さえやり方がわからなくて姪っ子(女子高生)に教えてもらったくらいなので、「新技術を使うこと」に対するイソさんの熱心さには頭が下がる思いです……。
そのような視野の広さがあったので、アメリカと戦争しても勝てる見込みがないことを、山本五十六は心底からよくわかっていたんです。
日本が戦争を起こさないこと、戦争を避けることを願い、そのように力を尽くしました。
結果、山本五十六が連合艦隊司令長官になってしまったのは先に説明したとおりです。
五十六が予想していたとおりの道を日本は歩みました。
アメリカとの開戦です。
すると、人々は山本五十六に「連合艦隊司令長官として華麗に戦って成果を上げること」を望みました。
「条約反対派三羽ガラス!」なんて叩いていたのに、まったく調子のよいことです。
こうして彼は優秀さゆえに日本が戦争で勝てないことを知っていたのに、その力のせいで「勝てない戦争」の指揮を執る羽目になってしまったのです。
山本五十六の人生年表
山本五十六がどんな人生を歩んだのか?
何歳のときに何をしていたのか?
わたしは歴史上の人物の漫画を描くとき、イメージをまとめるためにそれがとても気になります。
ですので、五十六が何歳のときにどんなことをしていたのか、さらにそのときにはどのような時代背景だったのか、それらを確認しやすいように年表にまとめました。
初心者の方にも詳細がわかるように書いたので、ものすごく長い年表になっています。
興味のある方だけ、下の文字をクリックしてご覧ください。
生家・高野家、家老・山本家と五十六
山本五十六はもとは士族である高野家の生まれなので、高野五十六という名前でした。
山本家を継承して山本五十六になったのは、大正5年9月、32歳のとき。
このときの五十六は海軍少佐です。
そうそう、物語では中堅クラスの脇役キャラクターの肩書にされてしまいがちな「少佐」ですが、じつはとっても偉いんですよ!
(実家の高野家は五十六の兄である五男の季八が継いでいます)
山本家は、新潟県長岡藩の家老の家です。
長岡藩はかつて戊辰戦争で、幕府軍側に味方しました。
簡単に説明すると、戊辰戦争とは明治のはじめに起こった日本の内戦です。
新政府軍(明治政府)と、それに反対する幕府軍で戦争しました。
勝ったのはもちろん新政府軍。
この事実は日本政府の人事に長く影響しました。
政府の要職は戊辰戦争のときに新政府軍として大活躍した薩摩藩と長州藩の出身者によって占められていきます。
戦争に負けた側はいつも悲惨です。
それは内戦である戊辰戦争も同じでした。
負けた側である長岡藩は、「幕府軍に味方した罪」で家老の一家である山本家を断絶させられてしまったのです。
明治17年になって「山本家を復活させてもいいよ」と政府から許しが出ましたが、そのときには山本家を継ぐことができる人はもうだれもいませんでした。
元号が代わって大正5年。
時代が変わっても、長岡の人々の願いは変わりませんでした。
「順調に出世している期待の星・高野五十六に山本家を継いでもらってはどうだろうか」との話が出てきたのです。
いいだしたのは、かつて長岡藩の藩主だった牧野忠篤子爵です。
ほかの古老たちも次々と賛成し、高野五十六が山本五十六となることがとんとん拍子で決まっていきました。
筆者の個人的な考察としては、後継者がいないからこそ明治政府は山本家を許したのかなあ~なんて思ってしまいます。
政府のドライで冷たい対応が伝わってくるこの流れ、物語映えしますね~。
許されたのにもかかわらず滅んでいくしかなかった山本家。
それを継承して救った一少佐が、のちに日本の艦隊を動かすことになるだなんてまるでマンガのような展開です。
山本五十六の結婚と生活
山本五十六の結婚相手は会津藩の士族の娘
「高野五十六」から「山本五十六」になってから間もなく、彼は結婚します。
お相手は、会津藩の士族の娘・三橋禮子(みつはし れいこ)という女性です。
禮子のことを紹介したのは、海軍兵学校からの親友・堀悌吉。
堀の尊敬する上官・山下源太郎大将の奥さんと、禮子の母親がいとこ同士だからだというつながりでした。
三橋康守(みつはし やすもり)の三女だった禮子は、このとき数え年で23歳。
「東京に行ったことなんてありませんけど、べつに行きたいとも思わないんです」
そのように語る、都会のハイカラさんとは正反対の田舎娘・禮子のことを五十六はすぐに好きになりました。
「身長150cm以上の清楚な女性」という五十六の好みにドンピシャだったのです。
本命には家庭向きの女性を選ぶ!
この堅実さ、とってもリアリティがあります。
筆者は女性なので男性心理は推測になってしまいますが、結婚には妻・母として家をしっかり守ってくれそうな女性を選ぶのが賢い男性の在り方ではないでしょうか。
清楚な女性にこそ結婚のニーズがあるというか。
この当時は「男らしく」「女らしく」が重要な時代なので、その傾向がとくに強そうです。
リアリティがあるということは、読者が共感しやすいということでもあります。
もしも山本五十六を主人公に物語をつくるなら、妻の禮子はヒロインとして適任ですね。
さて、禮子は家政婦さんもかくやというくらいに母を助ける親孝行な娘でした。
それだけでなく、牛乳をしぼる仕事をして働いていました。
体はじょうぶで、ぜいたくに興味なしの質素倹約派。
しかも会津藩の士族の娘です。
会津藩は長岡藩と同じく、戊辰戦争で幕府軍に味方していました。
幕府軍側だった長岡藩の名家・山本家を継いだ五十六に、会津藩の士族の娘がお嫁にやってくる。
「薩摩の海軍をやっつける」とのハングリー精神でがんばっていた五十六にとって、あまりに理想的なお話ではありませんか!
結婚の直前、五十六は禮子に手紙を送りました。
「周囲の人から聞いてもう知っていると思うけれど、わたしはしょっちゅう海の上で生活・勤務することになる人間です。
生活のことにうといですし、仕事と家庭についてはきっちりわけたいと考えています。
わたしの一生は軍人として国のためにはたらくことが第一です。
家庭のことについて、あなたには人よりも苦労をかけると思います。
ですが、どうぞよろしくお願いします」
1918年(大正7年)8月、ふたりは結婚しました。
12歳差のふたりは仲よい夫婦になり、二男・二女の子どもにも恵まれます。
山本五十六の人気の理由は唯一無二の魅力があるからに他ならない
ここまででも五十六の人生にはドラマ性がたくさんあることがじゅうぶんにわかりました。
さらにディープに彼の魅力に迫っていこうと思います。
山本五十六は少年時代からものすごく苦労人だった
『五十六』の名づけの由来は父親の年齢! なんと56歳のときに生まれた末っ子
まずキャッチーなのは、五十六の名前の由来です。
なんと、五十六が生まれたとき、父・貞吉(さだよし)は数えで56歳だったのです。
現代でいうと55歳ですね。
どちらにせよ、びっくりなお年です。
ということは母親がかなり若いのか? と思いきや、母の峯(みね)はこのとき45歳。
超高齢出産! と言いたくなりますが、超高齢出産は「50歳以上の女性が子を産むこと」のようですから上には上がいるようです。
こういうさり気ないキャッチーさが、五十六の主人公的要素を後押ししているのは間違いありません。
だって、間違いなく誰ともかぶらないネーミング、名前ですものね。
ヒーロー・ヒロインの名前には、モブとは違うことを示すキラッと光るものがほしいですから。
山本五十六の複雑すぎる家庭環境
歴史大河ロマンのシナリオの鉄板として、大人時代は波乱万丈、その対比として子供時代は無邪気で思いっきり幸せに描く、というのがあります。
ところがこれに反して、五十六の現実での家庭環境は複雑なものでした。
ひとことでいってしまえば彼は「八人きょうだいの末っ子」でしたが、じつはこのうち4人は母親のちがう兄だったのです。
というのも、父・貞吉がなんと三度も結婚しているから……!
貞吉は最初の妻だった美保を病で亡くすと、その妹である美佐と結婚します。
しかし美佐も病死してしまい、さらにその妹である峯と結婚したのです。
五十六の腹違いの4人の兄は、二番目の妻である美佐が生んだ子たちです。
彼らは五十六とはずいぶん年が離れていたようで、五十六は長兄・譲(ゆずる)の子(長男)である力(ちから)と仲よく遊び、学んでいました。
それでも力は五十六より10歳年上です。
二番目の妻・美佐の子どもたち(五十六と腹違い)
- 譲(ゆずる):長男。もとの名前は楯之進だったが、「譲」に改名。戊辰戦争に参加後、北海道の樺戸(かばと)監獄で初代看守長になる。
- 登:次男。近江家に養子に行く。
- 丈三:三男。キリスト教の牧師になったので、高野家を継ぐことはできず。
- 惣吉:四男。山崎家に養子に行く。
三番目の妻・峯(みね)の子どもたち(五十六と同腹)
- 継(つぐ):長女。早死にしてしまう。
- 加寿(かず):次女。高橋家に嫁ぐ。
- 季八:五男。高野家を継ぐ。
- 五十六:六男で末っ子。のちに連合艦隊司令長官。
長男・譲の子どもたち一覧
- 力(ちから):長男。五十六より10歳年上。海軍の軍医をこころざしていたが、24歳のときに結核で病死。高野家の後継ぎとして期待されていた。
- 京(きょう):長女。力の妹。五十六より5歳年上。東京帝国大学付属病院の看護部長。五十六は彼女を「姉君(あねぎみ)」と呼んで慕った。キリスト教徒。
- 気次郎(きじろう):次男。京の弟。キリスト教に入信する。
- 昌三郎:7歳で死去。
- 徹四郎:2歳で死去。
- 五郎:力、京、気次郎、昌三郎、徹四郎とは腹違いのきょうだい。静と同腹。
- 静:五郎と同じく力、京、気次郎、昌三郎、徹四郎とは腹違いのきょうだい。
五十六が父親にかけられた衝撃的な言葉
高野家の長男である兄・譲は北海道の樺戸(かばと)監獄で初代看守長となっていたので高野家を継ぐことができませんでした。
すると、必然的にその長男である(五十六から見ると甥)力が高野家の後継ぎとしてたいへんに将来を期待されていました。
高野家の「長男の長男」である力は優秀な人で、海軍の軍医になりたいと勉強に励んでいました。
しかしその思いは叶わず、24歳のときに結核で亡くなってしまったのです。
子の死が親にとって耐えがたいほど悲しいものなのは世の常です。
それは孫の死も同じことですし、父・貞吉にとってもそうでした。
また、当時はいまのように個人主義ではなく、家を継承させることがなによりも大切な時代。
貞吉の絶望はどれほどのものだったのでしょう。
そしてその苦しみのあまり、彼は思わずいってしまったのです。
まだ13歳だった五十六に向かって、「おまえが代わりに死んでくれればよかったのに」と。
それでも五十六は父を嫌うことはしませんでした。
あるとき骨折した父を背負い、近所の銭湯までいっしょに行って入浴の手伝いをするほどにけなげでした。
すると今度は貞吉は、死んだ孫の身代わりになることを五十六に望んだのです。
力が亡くなったときに「おまえが代わりに死んでくれればよかったのに」といっておきながら、「力の代わりに武士(軍人)になってほしい」といいだした父親。
最初に叩いておきながらあとから「こうしてほしい」と望まれる……。
この構図、連合艦隊司令長官になって望まざる戦争の指揮をとらざるを得なかった、のちの展開とまったく同じです。
「条約反対派三羽ガラス」と中傷していたのに、いざ戦争が始まると「戦果をあげてほしい」と望む勝手な民衆たちといったい何が違うというのでしょうか。
五十六の置かれた環境は、子どものころから理不尽すぎます。
五十六はいった、「おれは薩摩の海軍をやっつける」と
史実として五十六が海軍に入るのは、わたしたちの知っているとおりです。
彼は親のいうことに唯々諾々としたがって軍人になったのでしょうか。
「そうだ」という説もありますし、「そうではない」という説もあります。
歴史の英雄や主人公には自分で物語を動かしてほしい――。
彼らの活躍を見守るわたしたちはそう望んでしまいます。
どうにもならない状況に流されて生きていくしかないなんて、自分たちだけでじゅうぶんお腹いっぱいだからです。
われわれの望みを体現するかのような五十六のエピソードをひとつご紹介します。
五十六が自分の意志で海軍に入ることを決めた、というものです。
この時代、戊辰戦争の勝者だった薩摩藩、長州藩の流れをくむ者たちばかりが海軍の要職を占めていました。
それに比べて、戊辰戦争の負けた側になってしまった新潟県長岡(長岡藩)はすっかり貧乏な町。
「どうして長岡本町は貧乏な子が多いのか」と、優秀な五十六は子どものころから疑問に思っていました。
彼は親友・駒形宇太七(こまがた うたしち)にいったのです。
「海兵に行って、おれは薩摩の海軍をやっつけるんだ」と。
ここで五十六の言葉を聞いたといわれている駒形宇太七は商人の子です。
のちに会社を経営して新潟県の多額納税者にもなっていますので、かなりガチの実業家です。
ちなみにお父さんの名前も宇太七なので、五十六の親友の駒形宇太七は「二代目の宇太七」です。
宇太七は「商人には禅が必要だ」と考え、私費で禅道場・堅正寺をつくりました。
「条約反対派三羽ガラス」だったときの五十六が、海軍を辞めてやる! とこもった禅寺がここです。
住職の橋本禅巖和尚をスカウトして連れてきたのも、駒形宇太七です。
ところが彼は堅正寺が完成して間もなく、入仏式がおこなわれる直前に急死しています。
堅正寺の護持や事業の跡を継いだのは、弟の駒形十吉(こまがた じゅうきち)さんです。
駒形十吉氏の集めていた美術品を展示している美術館が新潟県長岡市にあります。
戊辰戦争の勝者である薩摩藩や長州藩の出身者が牛耳っている海軍。
そこに敗者である五十六が入って組織を動かすことができたなら、どれほど痛快なことでしょうか。
五十六は生涯にわたって戊辰戦争についての記録を調べることを趣味のひとつにしていたようですから、案外こちらの説が本当なのかもしれません。
間を取って両方とも本当だとするなら、父・貞吉の「軍人になってほしい」発言は五十六にとって「軍人になること」を現実的に考えるきっかけとなったのではないでしょうか。
いままで考えてもみなかった将来の道を示され、五十六は自分の本当の望みを見つけたのかもしれません。
「薩摩の海軍をやっつけたい」と。
さて、じつは父・貞吉に対してモヤモヤするのはここからが本番です。
これをご覧になっているあなたもぜひ驚いてください。
わたしはこれを知ったとき、開いた口が塞がりませんでした。
なんと高野家には、五十六を海軍兵学校のある広島県まで行かせるだけの交通費がなかったのです!
五十六の生家・高野家はとても貧乏……
成績優秀だった五十六は、二番の成績で海軍兵学校に合格しました!
授業料はもちろん無料、さらにお給料まで出る海軍兵学校はとても人気の進学先だったので、倍率が何十倍ともいわれていました。
それを二番の成績で合格だなんて、五十六がどれだけがんばったのかが伝わってきます。
じつはこのとき一番の成績で合格していたのが、五十六の親友になる堀悌吉(ほり ていきち)。
親友との縁は運命的なきっかけが始まりだったんですね。
太平洋戦争に突入することが決まったとき、五十六が最後に会いに行った親友は堀悌吉ですから、もしも漫画にするならこのふたりの出会いのシーンはしっかり描きたいところです。
そうして五十六にやってきた驚きの試練……。
父・貞吉の願いをかなえるかたちで海軍兵学校を受験し、そしてちゃんと合格したのに、海軍兵学校のある広島県江田島への交通費を出せるほどのお金が家にはありませんでした。
雨風をしのげるちゃんとした住宅はあったにせよ、高野家は貧乏でした。
子どもたちの学費を工面するのにも必死です。
授業料の必要ない学校(卒業後に教員になれば授業料が免除される「師範学校」など。師範学校は教員を養成するための学校)に進学することについては許可を出しますが、お金のかかる学校に子どもを生かせる余裕なんてとてもありません。
せっかく合格したのに大ピンチ!
五十六はそのお金を工面するため、中学校時代に奨学金を出してくれていた民間育英団体「長岡社」に自分で頼みに行きました。
「江田島行きの旅費をどうか出してください」
民間育英団体とは、個人や企業が設立した、奨学金制度を設けている財団です。
この「長岡社」は、五十六の故郷である新潟県長岡の出身者たちでつくりあげたものでした。
当時「長岡社」の実権を握っていたのは長岡本町の町長・秋庭半(あきにわ なかば)。
彼も士族で、同じ士族の高野家のことはよく知っていました。
「好きな経路で江田島に行ったらええよ」
秋庭町長は、五十六のために交通費を出すことをOKしてくれたのです。
こうして高野五十六は無事に海軍兵学校に入ることができました。
…………さて、ここまで読んでくださった方は父・貞吉にモヤモヤしていらっしゃいませんか。
わたしはとてもモヤモヤしています。
「おまえが代わりに死んでくれれば~」からの「軍人になってほしい」に手のひら返し。
よっぽど高野家から軍人を出したいのね、と思えば兵学校への交通費さえ出せない。
せめて父みずから交通費の工面を何が何でもするのかしらと思えば、民間育英団体・長岡社に頭を下げに行くのは子ども(五十六)本人……。
ちょっと親としてどうなのかな、というのがわたしの正直な感想です。
それともこの時代の親の育児は、これくらいが普通だったのでしょうか……。
親子関係の歴史についても勉強したいところです。
五十六は日露戦争で二本の指を失う……
五十六が海軍兵学校を卒業したときには戦時中だった!(※日露戦争)
日露戦争が始まってから9か月後、五十六は海軍兵学校を卒業しました。
少尉候補生として練習艦で経験値を積んだあと、すぐに装甲巡洋艦「日進(にっしん)」に配属されます。
「巡洋艦」って何? と思われた方はこちらのページをどうぞ!
「軍艦」について超絶マニアックに詳細を解説しています。
「日進」は、「日本海海戦」に参加します。
「日本海海戦」は日露戦争のシメの海戦です。
ロシアから直々にバルチック艦隊がやってきて、当時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎率いる日本海軍がそれを迎え撃ちました。
東郷平八郎が乗っていたのは、いまも記念艦として日本に残っている戦艦「三笠」。
三笠を先頭にして艦船はずらずらと列をつくりました。
そのしんがりを務めていたのが五十六の乗っていた「日進」です。
「丁字戦法」と呼ばれる、東郷平八郎のこの戦法は有効なもので、事実、バルチック艦隊に勝利しました。
しかし先頭の三笠はともかく、しんがりの日進もとても危険なポジションです。
丁字戦法と日本海海戦についての詳細はこちらの記事で解説しています。
日進は砲撃を受け、五十六は大けがをしてしまいます。
五十六のけがは重く、左腕を切断するしかない――とまでいわれました。
そうでもしないと傷口から化膿して死の危険があったからです。
しかし五十六は腕の切断を拒みました。
もしも腕を失ったら海軍を辞めなければいけない!
そう思ってのことです。
けっきょく左手の指二本――人差し指と中指――を五十六は切り取られました。
指を三本失うと海軍は辞めねばならないことになっていたので、二本だとなんとかセーフです。
とはいえ、このときの五十六は本当に海軍をつづけられるかなんてまったくわかりませんでした。
なぜなら、全身にまわった細菌のせいで高熱を出して、生死の境をさまよっていたからです。
佐世保海軍病院での入院生活は100日にもおよびました。
なんとか生き残れた――と、回復した五十六は5歳年上の姪の京(きょう。東京帝国大学付属病院で看護部長をしている)に向かっていいました。
「天はわたしに新しい命を授けたんだ。軍人としてもういちど、国のために力を尽くしなさいと」
この言葉のとおりの人生を五十六は歩んでいくことになります。
五十六のせりふ、名言のひとつひとつがとてもカッコいいです!
五十六の挑戦には少年の心が宿りつづけている!
新婚早々、単身赴任をした先で無銭旅行をする五十六
結婚して一年もたっていないとき、五十六は駐在武官としてアメリカに単身赴任することになりました。
日本海軍の人事はなかなかに容赦がありません。
アメリカ行きの理由は「語学研修のため」でした。
もちろんそれは表向きの理由で、本当は「アメリカの国力や軍備をそれとなく探ってこい」という任務でもあります。
禮子を日本に置いてひとりアメリカに旅立った五十六は、ハーバード大学に留学します。
アメリカでは街を探索し、いろんなモノを見聞きしました。
カメラに興味を持って子どもや風景の撮影に挑戦したり、リンカーンの伝記を何種類も読んだりしました。
あるときには、パンと水だけを持ってメキシコに旅行に行くことを計画、実行してしまいます。
「日本のアメリカ駐在武官が無銭旅行!?」
この事実はたいへんにメキシコ政府を不審がらせました。
五十六はそんなことは気にせず、現地の調査と勉強にいそしみます。
世界の石油事情だけでなく、アメリカの経済力と海軍力の豊かさがつながっていることを悟ります。
石油がこれからの時代のエネルギーの中心となるだろうこと、石油がないと軍備力をととのえることさえできなくなっていくだろうことも。
五十六が飛行機の操縦デビューをしたのは40歳のとき! 何歳になっても挑戦を忘れない
40歳になった五十六は、自分の専門を「砲術」から「航空」に変更しました。
40代に突入してから専門を変更する挑戦心にも驚いてしまいますが、五十六のそれは本気でマジです。
ひとりでコツコツ航空の勉強をするのではなくて、「霞ケ浦航空隊」の訓練・指導にあたることにしたのです。
「霞ケ浦航空隊」は、いちおうは飛行機の操縦技術を学ぶための教育隊です。
ところが隊員はおりこうさんとは程遠く、不良のたまり場状態!
ただよう空気だけでもぎすぎすしていて、決まりは破って当然のもの。
寮を勝手に抜け出して街に繰り出し、お酒を飲んで朝帰り。
上下関係が激しい軍隊において、敬礼さえ満足にできません。
ヘアスタイルは坊主頭が基本のはずが、髪を伸ばしている者も多いし……。
「とりあえず長髪禁止! 一週間以内に髪を切れ!」
髪型の乱れは心の乱れでしょうか。
「飛行事故を少なくするためには、まず生活を改めないと」
五十六はそのように考えたので、隊員たちのヘアスタイルをととのえさせることからまず始めました。
「えっ、わたしは頭にハゲがあるんで髪を切られないんですぅ」
(ハゲているなら髪なんて伸ばせないでしょ!)
そんな意味不明ないいわけをする隊員もいましたが、なんとか一週間後にはみんな五十六にしたがって坊主頭に髪型を切り替えました。
五十六の努力は実を結び、一か月もたたないうちに霞ケ浦航空隊のぎすぎすした雰囲気はなくなりました。
「飛行機はこれから重要なものになる」――そのように確信しつつも五十六はこれまで飛行機の現場を知る機会がありませんでした。
しかし、霞ケ浦航空隊の副長(兼教頭)のいまは違います。
なによりもリアルな現場そのもの!
運動能力には自信あり。
五十六は操縦方法を学びました。
すでに大佐だった五十六。
大佐はとてもえらい立場です。
操縦を部下にまかせてラクをすることだって許されます。
「その場所にいる人がいったい何を見て、何を思い、何をしているのか」
その現実を知ることが大切だと五十六は考えていました。
――だったら自分で操縦するのがいちばんだよね!
40歳の大佐で副長が、自分で操縦桿を握るの!?
しかも未経験!
これには隊員たちもびっくり。
みずから操縦桿を握って飛行機に乗った五十六は、空へ向かって見事に飛びあがりました。
山本五十六が持つ先見の明
山本五十六は思った。「石油がないから日本は戦争で勝つことはできないだろう」と……
この時代、石炭がエネルギーの資源としてまだまだ現役でした。
船も汽車も石炭を燃料として動いていたからです。
いまでこそ石油が第一で、エネルギーとしての石炭なんてもう歴史用語やん! なレベルで時代遅れですが、このときの石炭は現在の石油くらいに重要でした。
「石炭が大切(=石油については無関心)」なのが常識です。
そんな中、五十六はアメリカに留学・駐在していたときに気づいてしまいました。
「石油がないとまずい!」
軍人としてどんどん出世していながら頭のやわらかさを保ちつづけていたからこその先見の明。
まさに視野の広さ。
だれも気づいていないことにだれよりも早く気づいてしまったのです。
このときの彼は35歳くらいですから、人によっては新技術を学ぶなんてかったるくなってくるころです。
思い込みによって頭が凝り固まってきはじめる年齢でもあります。
人間は現状維持をしたいという本能(現状維持バイアス)がありますから、ぼーっとしていると無意識のうちにそのように選択して生きていくのが普通になってくる。
ところが五十六はその本能に呑まれることはありませんでした。
五十六は「飛行機をもっと実用化せねばならない」と考えた
飛行機の可能性についても五十六は目をつけました。
第一次世界大戦で飛行機が兵器として使われていたとはいえ、このときの航空技術はまだ未熟なものでした。
チャールズ・リンドバーグがニューヨーク~パリ間の大西洋横断飛行に成功するのは1927年のことですし、この挑戦は「兵器の可能性を探るため」ではなくて「人類が可能性に挑戦する冒険」です。
そう、飛行機に乗ることは冒険だったんですね。
飛行機が兵器のメイン、戦争の主役になるなんてだれも思ってもいません。
五十六の目のつけどころはあまりに先進的なものでした。
五十六が兵器としての飛行機の可能性に目をつけた理由は、飛行機を使えば戦艦よりも効率的な戦いができるからです。
もともと戦艦対戦艦の戦いはとても効率が悪いのです。
戦艦同士の戦いの場合、大砲と大砲を撃ちあうことがメインになります。
当時の大砲にはいまのミサイルのように「敵を自動的に追いかけていく機能」なんてなかったので、敵艦の位置と自分の艦の位置をもとに計算して狙いを定めます。
が、この一発目は基本的に外れて当たり前。
外して落ちた弾の位置・敵戦艦の位置・自分の戦艦の位置、これら三つを総合した計算をおこないふたたび狙いを定めて撃つことになります。
ふつうはここでも外します。
だって、自分だけでなく敵も動いていますし、波もあります。
天気が悪くて遠くが見えづらいことだってあります。
当時は高性能なレーダーなんてありません。
文字どおり、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる!
とにもかくにも、こうして非効率にひたすら大砲を撃ちあうのが当時の戦艦の戦い方でした。
大砲はなかなか当てられませんが、当ててさえしまえば相手に大打撃を与えることができます。
五十六自身がその具体例のひとつです。
日露戦争で五十六が指を失ったのは、そのとき乗っていた装甲巡洋艦「日進」が砲撃を受けたことが理由なのですから。
とはいえ、大砲による戦闘の効率が悪い事実は変えられません。
対して、もしも飛行機が戦艦を攻撃するならどうなるでしょう。
動きの遅い戦艦より、飛行機はずーっと早く動けます。
そのスピードで敵艦の頭の上に行って爆弾を落とせば――確実に弾を当てられるのです!
40歳になった五十六は行動を起こします。
みずからの専門を「砲術」から「航空」に変更したのです。
が、当時の日本では飛行機は見下されていました。
当時のいわゆる「ふつうの軍人」が持っていた、飛行機に対してのネガティブなイメージ
- 飛行機そのものがまだ未完成なので、乗ることそのものがそもそも危険すぎ。
- 未完成な兵器である飛行機よりも、バッチリ完成された軍艦のほうがカッコイイ!
- 「戦いとは軍艦に乗って、大砲を撃ちあうものだ!」という思い込み。
- 戦いは正面から正々堂々とするもんでしょ? 飛行機でブーンッと敵に近づいて一方的に撃って帰ってくるなんてカッコ悪い!
- 日露戦争のときにいわゆる大砲の撃ち合いで勝ってしまったので、「日本は大砲の撃ち合いがめちゃくちゃ強い」という思い込み。
- 日露戦争で大砲の撃ち合いが成功してしまっているので、「勝てる戦い=大砲の撃ち合い!」という思い込み。
- 「海戦といえば軍艦っしょ!」という思い込み。
なんですかね。
この「思い込み」のオンパレード。
「戦いとはこうすべきだ」という思い込みもあって、飛行機の評価はこのようにさんざんです。
しかしこのあとの未来を知っているわれわれからすると、これらの思い込みがどれほどおそろしいものかわかってしまいます。
太平洋戦争のときに日本の本土を空襲しまくったのは飛行機ですし、あの有名な戦艦大和だって戦艦としてはめちゃくちゃ強いのに敵が飛行機メインの部隊で攻撃してきたおかげで一方的にタコ殴りにされてしまっています。
思い込みにとらわれることなく先見の明を持つのは、どれほど大切なことでしょうか。
山本五十六の人間的な優しさ
山本五十六は両親を失ったとき、とても悲しんだ
五十六が佐世保で予備艦隊参謀をしていた28歳の冬、父・貞吉が老衰で亡くなりました。
数え年85歳の大往生でした。
貞吉が死ぬまでその看病をしていたのは、もちろん妻である峯です。
疲労がたたった母・峯は、看病疲れで寝込んでしまいました。
仕事の都合がつかず父の葬式に出られなかった五十六は、夏になってから故郷・新潟県長岡に帰省しました。
長岡では手に入らないくだものや珍味、たくさんのおみやげを持って……。
それは母のためです。
冬になると雪が積もる新潟県長岡には「雪鳰(ゆきにお)」という風習がありました。
「雪鳰」とは、冬の間に降った雪をためておいて、暖かい季節になってからも溶けないようにワラで覆ったものです。
人々はこの雪を買って魚の保存に使ったり、熱を出したときに熱さましに使っていました。
五十六はこの雪鳰に行き、雪を買いました。
両肩にぶら下げる桶ふたつ分の量です。
それを使ってアイスクリームをつくり、母に食べさせてあげました。
五十六は母・峯のことが大好きでした。
しかし予備艦隊参謀の仕事はあまりに忙しく、母を置いて佐世保に帰らねばならぬことになってしまったのです。
五十六が佐世保に戻ってから間もなく、母・峯は死去しました。
五十六は母の死を悲しみ、小学校時代の恩師・渡部興(あたう)にその気持ちを記した手紙を送っています。
「父も母もとうとう亡くなってしまいました。
どちらの死に目にも会わず、しかも葬式にも出られませんでした。
これは軍人であるからには仕方のないことだし、父も生前そのようにいっていました。
だからあえて『残念だ』とは嘆きますまい。
しかし母には『あと三年は生きていてほしかった』と思わずにはいられません。
母は71歳でしたが、71歳を高齢だなんてわたしは思いません」
いまでこそ男らしくだとか女らしくだとか、そういった考え方に疑問の声が出てきていますが、この当時は「男は男らしく、女は女らしく」と強く望まれていました。
ましてや五十六は軍人、それも予備艦隊参謀にまで出世した大尉(※当時)です。
いくら両親が死のうとも本来、こんなに感情的に本音をいうなんて許されることではなかったでしょう。
本音では悲しくてたまらなくても、ここまではっきりと嘆きを口にすることができる人はほとんどいませんでした。
そんな常識に縛られることなく、悲しいときには「悲しい」と素直に心中を打ち明けるところに五十六の魅力がありました。
訓練で事故死する隊員を悼みつづけた山本五十六
五十六が霞ケ浦航空隊を指導していたときのことです。
隊員が訓練中の事故で亡くなってしまう悲劇が数えきれないほどにありました。
このときの飛行機はとにかく未熟で、うまい人しかまともに操縦できないものだったからです。
とはいえだれしも最初はもちろん初心者。
つまり、みんな最初は下手な人なのです。
なのにうまい人しか飛ばせないなんて、生き残るだけでもたぐいまれなセンスと運のよさが要求される困難な乗り物でした。
五十六は隊員たちのことをだれよりも大切に思っていました。
訓練で隊員が死ぬと五十六はその葬儀に出席しました。
そして泣きました。
隊員の死を心から悲しみました。
死んだ彼らの名前を自分の部屋の壁に貼りました。
朝夕、それに向かって敬礼します。
犠牲者数は増えるばかりだったのでとうとう部屋の壁では貼りきれなくなり、事務室の壁に貼りだすようになりました。
新人が入ってくると、その壁に向かって敬礼させました。
手帳にも犠牲者の名前を記しました。
朝と晩、その手帳をかならず開いては眺めていました。
そのとき彼は何を思っていたのでしょう。
日本の軍人は死ぬと、靖国神社にまつられることに当時からなっていました。
しかしこの「死」は戦死のみが対象で、事故や病で亡くなった軍人は靖国神社にまつられることがありません。
つまり、霞ケ浦航空隊の訓練で死んだ隊員たちは、靖国神社の神さまの対象外だったのです。
日本のためを思い、文字どおり命がけでがんばっているのに……。
「それはあまりに悲しい」と五十六は考えたのでしょう。
死んでしまった隊員たちのための神社をつくることにしました。
「霞ケ浦神社」です。
神社は士官以上の隊員たちの寄付もあって無事に建立(こんりゅう)されました。
五十六はここでも人任せにせず、自分で資材を調達するばかりか、建設する人々の仲間に加わりました。
汗びっしょりになって、力仕事に励みました。
隊員への思いを、しっかり行動に起こして表現する人だったんですね。
開戦が決まったとき、山本五十六は何を思ったのか
アメリカと戦争することが決まったときのことです。
五十六はその打ち合わせのために東京にやってきました。
親しい人たちに遺書のような手紙を送るのと、家族・親友と最後の時間をもうけることも目的の中にありました。
東京の青山南町にある自宅では三日間を過ごしました。
五十六は戦争で「自分が生き残る」なんてはなから考えていませんでした。
円卓に置いた焼き鯛を囲んで、五十六と妻・禮子(れいこ)、四人の子どもたちみんなで食事をしました。
黙々とした食卓だったと伝わっています。
そして翌朝、学校に行く子どもたちを温かな視線で見送りました。
親子の最後の別れでした。
親友・堀悌吉とも会いました。
アメリカとの戦争を全力で回避しようとしていたにもかかわらず、それを指揮せねばならない五十六。
そんな彼をいたわってくれる悌吉。
兵学校時代からの親友に対し、「ありがとう……もうおれは帰れないだろうな」と五十六は別れを告げます。
旗艦・長門(ながと)に帰ろうと横浜駅で特急に乗り込む五十六を、堀悌吉は見送りました。
堀悌吉は山本五十六の海軍兵学校時代の同期生です。
五十六が2番の成績で入学したとき、1番の成績だったのが堀悌吉でした。
五十六は堀の知性を尊敬していました。
五十六が三橋禮子との結婚を決めたのも堀悌吉が彼女を紹介したからこそです。
ところが堀は五十六が最後の別れを告げたときよりも7年前(1934年)、海軍内部の派閥争いに敗れて予備役にさせられてしまっています。
予備役とは、ふだんは一般庶民と同じようにふつうに仕事をして日常生活を送り、軍からの要請があったときに軍人として軍隊に戻る立場のことです。
予備役になって事実上海軍を辞めた堀は、日本飛行機株式会社や浦賀船渠(うらがせんきょ)株式会社の社長になり、実業家としての人生を歩んでいました。
軍人としていっしょに戦場に行くことはできませんでしたが、友情が消えることはありませんでした。
真珠湾攻撃を成功させた山本五十六はミッドウェー海戦で大敗し、そして戦死へ……
堀悌吉に五十六が告げた「もうおれは帰れないだろうな」――この言葉は当たりました。
山本五十六は真珠湾攻撃をいちおうは成功させました。
そのあとは快進撃を繰り返してどんどん調子に乗っていく日本軍。
そしてミッドウェー海戦の大惨敗。
南方に向かった五十六は、戦う兵士たちを元気づけるために前線に向かいます。
その途上、乗っていた飛行機がアメリカ軍に撃ち落とされ、五十六は亡くなってしまいました。
アメリカとしては、山本五十六を倒したとしてもそのあとを継ぐ司令長官がさらに有能だったらどうしよう? という心配があったようです。
しかし残念ながら、ほんっとーーーーに残念ながら、「山本五十六のあとを継げる有能な人材は日本海軍にはいない!」……これがアメリカの出した答えでした。
…………五十六が亡くなったあとの日本軍のグダグダっぷりを見ると、アメリカの分析は当たっていたんだなあ……と思わずにはいられません。
がっかり……。
「完全無欠の人間がこの世に存在する」と、あなたは思いますか
完璧な人間なんてこの世にいません。
五十六はあの時代をリアルタイムで生きた軍人としてじゅうぶんにがんばりました。
石油の可能性と飛行機の強さにだれよりも早く気づき、飛行機の組織をととのえることに力を尽くしました。
戦う人たちが死んでいくことを悲しんでいました。
日本が戦争で負けていく事実を人のせいにして逃げたりせず、前線に行って兵士たちを励まそうとしました。
その結果、彼は南太平洋のソロモン諸島にあるブーゲンビル島の上空でアメリカ軍に撃たれて戦死してしまいました。
「死をもって責任をとるなんてイヤだ!」という軍人もいた中、死を恐れずに連合艦隊司令長官として精一杯役目を果たしていました。
真珠湾攻撃もですが、なによりもミッドウェー作戦で致命的な失敗をしているため、現代になっても五十六の実力の有無について論争になることがあります。
わたしだってもしも当時の人間だとしたら、そしてそれらの戦いで夫や息子を失ったとしたら……、山本五十六について肯定することなんてとてもできなかったかもしれません。
「おまえが悪い! わたしの夫や息子を返して!」と、きっと思うことでしょう。
しかしわたしは後世の人間です。
だからこそあえて問いたいです。
山本五十六以外の人に連合艦隊司令長官になってもらうとして、彼以上の人材がこのときの日本にいたのでしょうか。
五十六以降の連合艦隊司令長官は言葉を選ばずにいえば、五十六以上の華々しい活躍はしていません。
最後の連合艦隊司令長官を務めた小沢治三郎は一生懸命に戦争を終わらせようと行動した点で「実績アリ!」といえますが、艦隊を指揮する連合艦隊司令長官として優秀かどうかとはまた別の話です。
昭和の末期に生まれて平成と令和を生きるわたしは、人間らしい人間として精一杯に生きて役目を果たそうとした山本五十六を尊敬しています。
山本五十六を題材にして映画や漫画・小説が繰り返しつくられているのは、彼について好意的な感情を持っている人が多いことの何よりの証ではないでしょうか。
一生懸命に生き抜いた人の姿は、ときがたってもその軌跡を見る人にエネルギーを感じさせます。
それが、物語の中で山本五十六が何度もよみがえる本当の理由なのです。