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ソ連・シベリアに強制移送のリトアニア人。トロフィモフスクの地獄

2022年8月19日

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ソ連・シベリアに強制移送のリトアニア人。トロフィモフスクの地獄

2022年8月19日

鍋弓わた(運営者)

サークル『極星堂きょくせいどう』で歴史漫画を描いている 鍋弓なべゆみわた(@wata_img)です。
このサイトについては【プロフィール】を、わたしが描いた戦間期~第二次世界大戦が舞台の漫画は【極星堂オンラインショップ】にどうぞ!

民族浄化と労働力確保・知識層の一掃をかねて、ソ連はかつてさまざまな人々をシベリア送りにしていました。

これを『強制移送』『強制移住』といいます。

ソ連が人々を無理やり入植・移住させた先は、だいたいにおいて僻地(へきち)、辺境の過疎地でした。

その中でも極北の地トロフィモフスク島での生活があまりに悲惨です。

ここに送られたリトアニア人とフィンランド人は、最初の冬に半分が死亡しています。

ここでいう「最初の冬」とは、1942年~1943年にかけてのことです。

第二次世界大戦は1939年~1945年なので、ちょうど戦中ということになります。
ソ連に併合されていたリトアニア含むバルト三国は、このときはナチスドイツに占領されていました。

リトアニア人の犠牲者数がやばい

第二次世界大戦中~戦後、ソ連の凶行のために多くのリトアニア人の方が犠牲になりました。

リトアニア人の少なくとも45万6000人が、ソ連によって何らかの被害を受けました。
被害は、虐殺・強制移送・投獄・拷問・何かの強制など多岐にわたります。

第二次世界大戦中、ソ連とナチスドイツの板挟みになったリトアニアは、1940年の人口の3分の1を失いました。

それだけ多くの方がソ連に人生を奪われ、狂わされたのかと思うとゾッとします……!

トロフィモフスクはどこにある?極寒のシベリア、極北の地

まず、トロフィモフスク(Trofimovsk)の場所がどこなのか地図を見てみましょう。
グーグルアース《Google Earth プロ(パソコン用)》を使うと、リトアニアとトロフィモフスクの位置関係がわかりやすいです。

以下の画像が、リトアニアやフィンランド、トロフィモフスクを含めたGoogle Earthの地図です。

見やすくするため、リトアニアの国境線だけ一部、青色でふちどりしています。

小説『灰色の地平線のかなたに』でリトアニア人の主人公リナはロシアのシベリア『トロフィモフスク』に送られました。北極圏に近く、ラプテフ海を臨むレナ川の三角州の島です。2022年現在のGoogle Earth プロの画像に現在の国名・地名を書き加えた地図。
リトアニア人やフィンランド人はロシアのシベリア『トロフィモフスク』に送られました。
北極圏に近く、ラプテフ海を臨むレナ川の三角州の島です。
2022年現在のGoogle Earth プロの画像に現在の国名・地名を書き加えた地図。

この地図の右上に赤いピンで表示されているのがトロフィモフスク(Trofimovsk)です。

この地図の見方

黄色いラインが国境線です。
白い線は、ロシア連邦内の地域を区切る境界線だと思われます。

地図の左側がヨーロッパ方面です。
字が小さくて見づらいですが、エストニア、ラトビアが確認できます。
ラトビアの左側(西方面)、ベラルーシの上側(北側)にある地域がリトアニアです。
この画像内では「遠すぎる」判定のようで、国名が表示されていません。

リトアニアやフィンランドからトロフィモフスクに連れていかれるなんて……あらためて見るとものすごい距離ですね……。

実際はこの画像以上の距離感があることでしょう。
Google Earthのこの地図は地球を見下ろすようなかたちになっているので、左側のヨーロッパ方面がグッと奥に入り込むようにゆがんでいるのです。

ゆがみの分、実際の距離よりも圧縮されて見えているはずです。

書き加えた地名のない地図もいちおう以下に貼っておきます。
ぜひリトアニアやフィンランドからトロフィモフスクへの距離を感じてゾッとしてください。

小説『灰色の地平線のかなたに』で主人公リナたちが最後に送られる極寒の地『トロフィモフスク(Trofimovsk)』とヨーロッパ方面の位置関係をGoogle Earth プロで見たもの。
リトアニア人とフィンランド人が送られた極寒の地『トロフィモフスク(Trofimovsk)』とヨーロッパ方面の位置関係をGoogle Earth プロで見たもの。
©Google Earth プロ

北のほうの島が白くなっていて雪の積もっていることがわかるのがまたやばい……。

トロフィモフスクの地形と気候が厳しすぎてやばい!

トロフィモフスクはラプテフ海を臨む、レナ川の三角州レナデルタに浮かぶ島のひとつでした。

「でした」と過去形なのは、2022年現在、トロフィモフスクはWikipediaのみならずこの世に存在していないからです。
2014年の調査で、トロフィモフスクはあとかたもなく海(≒レナ川)に沈んでいることが確認されています。

レナ川って?

レナ川とは、シベリア東部イルクーツク州とサハ共和国を流れている川です。
世界で10番目に長く、世界で9番目に広い流域面積を持っています。
ありていにいうと大河ってやつですね。
合流先はラプテフ海(Laptev Sea)です。

レナ川の三角州=レナデルタ

レナ川にある三角州のことをおもに『レナデルタ』といいます。
大河のレナ川にはいくつもの三角州が存在しています。
いまは野生生物保護区になっているようです。

現在のレナデルタには自然観測所が建てられています。

参考になるのが以下のツイートです。

レナデルタに浮かぶトロフィモフスク島に、同名の村「トロフィモフスク村」を築こうとソ連は画策していたようです。
そのためにたくさんのリトアニア人とフィンランド人が強制移住させられました。

トロフィモフスク(Trofimovsk)は英語版も含め、Wikipediaにさえページが存在しません(※2022年8月現在)。

あのなんでもありそうなWikipediaにさえページがないとは……
どれだけマイナーな場所なの!?

トロフィモフスクはヤクート(※現在のサハ共和国)北部にありました。

レナ川の流れるサハ共和国とは

サハ共和国は2022年現在、ロシア連邦を構成する国(連邦構成主体)のひとつです。

わたしたちはロシアを一国としてとらえがちです。
じつはロシアはたくさんの国が固まってつくられています。

サハ共和国の首都はヤクーツク。

アジアロシア(ロシアの領土でアジアに分類される地域)の約4分の1を占める、巨大な国がサハ共和国です!

現在おもに住んでいるのはサハ人(チュルク系)とロシア人。
ほかにはエヴェンキ人、ユカギール人、チュクチ人などシベリア先住民族も住んでいます。

2014年までは存在していたと思われるトロフィモフスク島。

その形状の雰囲気をつかむためには、科学雑誌Newton(ニュートン)公式さんの以下のツイートが参考になります。
レナ川の三角州(レナデルタ)についての内容です。

海に接続する川の中に、小さな島がいくつもあるのが見えますね。

それにしてもおそろしい美しさの写真です……!
かつてここに浮かぶ島(三角州)の中のひとつがトロフィモフスク島だったのでしょう……。
……この地形だと絶対に逃げられないような気が……

まさしく天然の要塞であり、自然の檻。

トロフィモフスク島では、11月に沈んだ太陽は2月にならないと戻ってきません。
つまり、11月~2月は太陽が昇らず、ずっと夜のままなのです!!
これを「極夜(きょくや)」といいます。

「極夜」の反対の現象が「白夜(びゃくや)」です。
太陽が昇りっぱなしだったり、夜になっても暗くならないことをいいます。

極夜はオーロラがもっともきれいに長く見られる時期だそうですよ……(白目)
もちろんこの間、レナ川は凍結しています……。

余談ですが、レナ川の流れるサハ共和国の首都ヤクーツクでは、厳寒期に凍結したレナ川を道路として使用します。
……車が通ってもだいじょうぶなくらいカッチコチに凍っているわけです。
寒すぎだし、氷が分厚すぎて恐ろしすぎる……!

ちなみに都市ヤクーツクは、トロフィモフスク島よりも南に位置します。
これでもトロフィモフスク島よりは”まし”な気候なのです……

トロフィモフスクに強制移住させられたリトアニア人たちの生活

ソ連に強制移住させられたリトアニア人、トロフィモフスクの地獄。これはバイカル湖だが、トロフィモフスクははるかに北なので、もっと厳しい風景が広がっているのだろう……
この画像はロシアにあるバイカル湖の様子。
トロフィモフスクはバイカル湖よりはるかに北なので、もっと厳しい風景が広がっているのでしょう……

約500人のリトアニア人が送り込まれた1942年8月当時、トロフィモフスクは無人島でした。

いいえ、厳密にはソ連の秘密警察NKVDエヌ・カー・ヴェー・デーが駐留していました。
また、リトアニア人が送られる一か月前――1942年7月――に、フィンランド人が連れてこられています。

このとき連れてこられた人々は、老人・女性・子供がほとんどでした!!

なお、子供であっても10歳以上は労働の対象です。

7月と8月という夏の入植。
それでもすでにトロフィモフスクは深秋のような気候だったそうです。

祖国を追放されてここに連れてこられた”囚人”たちは、住居・燃料・食料を自分たちで用意せねばなりませんでした。
さらに「生産計画」も実行せねばなりません。

ここでいう「生産計画」とは、漁業(魚釣り)と、釣れた魚の加工です。
釣れた魚は塩漬けにして保存していました。

一日当たりの労働は12時間だったといわれています。

「一日20時間はたらいた」証言もあります……

食糧は労働の対価として得られます。
しかしそれは300gのパンのみ!!
労働内容に魚釣りはありましたが、釣った魚を得ることはできません!!

釣った魚はすべてNKVD専用です!!

重労働なのに300gのパンだけが食事だなんて……
そりゃ病気になるわ……!!

寒さを耐えるための衣服や防寒具なんてもちろんないし、支給されることもありません。
連れてこられた人々は、連れてこられたそのときから同じ服をずっと着たきりです。

祖国から連れ出されるときに持ち出すことを許されたのは、各自たったひとつのスーツケースだけ。
その中に入れていたすべての服を使いつぶしても、替えは手に入りません。

服に限らず何かが必要なときは、手持ちのものと物々交換です。

やっと没収されずにすんだなけなしの持ち物――たとえば金時計のような宝物さえ、日々の食べ物や衣服へと変えるしかありませんでした。
小麦粉や缶詰へと……。

金目のものを手元に持っていたとしても、飢えているほかの人に盗まれる可能性がありました。

住む家は、石や流木を苔(コケ)や泥でくっつけただけの手づくりのもの。
この住居は『Jurta(ユルタ)』『yurt(ユルト)』『юртах(パオ)』などと呼ばれました。

正真正銘の手づくりの住居

『yurt(ユルト)』『юртах(パオ)』と呼ばれた手作りの住居。

ここでいう「手づくり」は”囚人”たち自身の手による正真正銘の”手づくり”です……!

重機はもちろん立派な資材など何もありません。
建築用の木材など、きちんとした資材はすべてNKVD専用です。

レナ川の上流から来る流木や石を苔(コケ)・泥でくっつけて、人々は家をつくったのです。

この手づくりの家『Jurta(ユルタ)』『yurt(ユルト)』『юртах(パオ)』はもちろん一階建て。
ドアを開けてすぐにひとつの部屋があるのみの単純なつくりです。

シベリアに追放された者たちが住んだ手づくりの住居『ユルタ(Jurta)』。流木や石を苔・泥でくっつけて建てたもの。リトアニアのルムシシュケス民族学博物館(Rumšiškės ethnographic museum)にある復元された『ユルタ(Jurta)』の写真。
シベリアに追放された者たちが住んだ手づくりの住居『ユルタ(Jurta)』。
流木や石を苔・泥でくっつけて建てたもの。
リトアニアのルムシシュケス民族学博物館(Rumšiškės ethnographic museum)にある復元された『ユルタ(Jurta)』の写真。
写真:Mick from Australia
ライセンス:CC 表示-継承 2.0(CC BY-SA)
Wikipedia『Soviet deportations from Lithuania』より

当時の部屋を描いた絵が残っています。
そこでは、部屋の中心に手づくりのストーブが描写されています。

¡kaona_chan!さんの以下のツイートにその絵が掲載されています。
三枚目の画像がそうです。

https://twitter.com/koriuaca_USCA/status/1251152725791789063

『ユルタ(Jurta)』内部はいちおうストーブ(もちろん手づくりの!)があったものの、室温は氷点下だったそうです。

窓は氷をはめたものでした。

つまり、氷そのものでできている窓がとけない環境・室温だったってことですね!

この手づくりの家一軒あたりに40~60人が住んでいました。
ぎゅうぎゅう詰めです。

復元された『Jurta(ユルタ)』『yurt(ユルト)』『юртах(パオ)』は、以下のリトアニア語のサイトで見ることができます。
実際の風景や内部は、より壮絶だったと思われます。
背景は雪しかない灰色の地平線でしょうし、整った丸太もありませんでしたから。

快適な生活を送るNKVD

レナ川の上流から流れてくる丸太のほとんどが、NKVDのために使われました。
彼らの住む住居や事務所を温めるための薪(まき)に使用するのです。

”囚人”たちが飢餓に苦しむ中、NKVDたちはアメリカから支援物資として送られてきた缶詰めを食べていました。
パン、バター、砂糖……そして”囚人”たちに釣らせた魚も。

さらに彼らは魚の保存に失敗することがあったようです。
腐らせた魚はもちろん廃棄です。

何度でもいいますが、リトアニア人とフィンランド人が飢餓と病気、重労働からのケガに苦しむ中でです。

”囚人”たちが着の身着のままで強制労働に従事するかたわらで、NKVDたちは毛皮を着ていました。

この追放から生き残ったリトアニア人女性のダリア・グリンケヴィチウテ(Dalia Grinkeviciute)さんは、強制労働収容所の監督者たちのことを「サイコパスだ」と回顧録でいいあらわしています。
ダリアさんが残した回顧録は『Shadows on the Tundra』として出版されています。
2022年現在、日本語訳はありません。

ダリアさんの詳細はこのページで解説しています!

トロフィモフスクの生還者

ダリア・グリンケヴィチウテさんの回顧録は、以下のサイトで読むことができます(英語)。

以下のリンク先にあるダリア・グリンケヴィチウテさんのシベリア回顧録は本当の本当に壮絶です……!
産後のナーバスなママにはとても読めません。
目を通される方は、筆舌に尽くしがたいほどきつい話であることを念頭に置いてご覧ください。

『LITUANUS』について

このダリア・グリンケヴィチウテさんの回顧録が掲載されているのは、アメリカのイリノイ州シカゴ『Lituanus Foundation, Inc.(リトゥアヌス財団)』が運営する『LITUANUS(リトゥアヌス)』というウェブサイトです。

『Lituanus Foundation, Inc.(リトゥアヌス財団)』は、発行した季刊誌『LITUANUS』のバックナンバーをウェブサイトの『LITUANUS』に再録しています。

季刊誌『LITUANUS』は、リトアニアとバルト地域、言語学・政治学・芸術・歴史・文学などについての専門誌です。

トロフィモフスクでは最初の冬に半分の人が亡くなった

ソ連が人々を強制移送した先は僻地・辺境の過疎地ばかり。その中でも極北の地トロフィモフスク島での生活があまりに悲惨です。ここに送られたリトアニア人とフィンランド人は最初の冬に半分が死亡しました。
ソ連が人々を強制移送した先は僻地・辺境の過疎地ばかり。
その中でも極北の地トロフィモフスク島での生活があまりに悲惨です。
ここに送られたリトアニア人とフィンランド人は最初の冬に半分が死亡しました。

連れてこられたその年(1942~1943年)の冬、多くの人が亡くなりました。

だって11月に沈んだ太陽は2月まで昇らない極寒の地ですよ……

ナチスドイツがソ連に攻め込んだとき、兵糧攻めにした『レニングラード包囲戦(1941年9月8日~1944年1月27日)』の死亡率は25%といわれています(市民の犠牲者は97%が餓死で、約63万人~100万人越えとも……)。
なお、トロフィモフスク島での最初の冬の死亡率は50%です!

亡くなると、ただ、決まった”その場所”に積み上げられました。

連れてこられた人々のおよそ半分が、この「最初の冬」に命を落としました。
死因は飢餓、風邪、感染症によるものです。

生きている人々も極限状態に変わりありません。
疲労、下痢、壊血病、凍傷、壊疽、飢餓……

なお、すでにおわかりのとおりあまりに酷すぎるソ連ですから、亡くなった方への死亡診断書などはいっさい発行されていません。

病気に感染した人はどうしたの?

病気に感染した人々は、その患者用の小屋に移ったようです。

医師はいませんし、薬もありません。

親を亡くした子供たちは?

親を亡くして孤児になった子供は、孤児専用の小屋に移されました。

飢えた子供たちは、氷の窓に積もる雪をはがして食べていました。

この子供用の小屋の死亡率は恐ろしいほどの高さだったそうです。

亡くなった方のご遺体は外に積み上げて春まで放置

この厳しすぎる冬の間、亡くなった方のご遺体は埋葬されませんでした。

追放された人々には、死者を埋葬する力も余裕もありませんでした。
吹雪と積雪・極夜、さらにだれもが飢えてシラミに食われ、凍傷を負い、極限状態になっているからです……
NKVDは亡くなった方を埋葬なんてしません。

ご遺体は外で山のように積み上げられました。
場合によってはそのご遺体を、野生動物が食い荒らしました。

集団墓地をつくってご遺体を埋葬したのは、トロフィモフスクが春になってからのことです。

埋葬は人種ごと?

埋葬については「リトアニア人とフィンランド人まとめてだった」「リトアニア人とフィンランド人はわけられていた」――どちらの証言も存在しています。

それだけでも当時の極限や混乱状態が伝わってきますね……

トロフィモフスクは戦後、無人島に戻る

トロフィモフスクは第二次世界大戦終わって4年後――1949年に無人島に戻りました。

そのあと数年は無人のままで放置され、正式に放棄されたのは1950年代半ばのことのようです。

つまり、トロフィモフスクへの入植および開拓は失敗したのです!
あれだけ多くの人を犠牲にしながら……

強制移住させられた人々に引っ越しの自由などはありません。
ソ連当局の気まぐれな計画で、”囚人”たちは入植地をたらい回しにされました。

そうしてトロフィモフスクからは少しずつ人々が移送され、減っていきました。

最後の”囚人”がトロフィモフスクから移送されて出て行ったのは1949年のことでした。

この最後の”囚人”の方は、魚釣りをおこなうために別の場所に連れていかれたとか。
当時トロフィモフスクでは魚がろくに釣れなくなっていたのですね。

トロフィモフスクの廃墟に放火!

廃墟として残っていたトロフィモフスクの建物は、1960年代、釣りに来た観光客によって焼かれたそうです。
…………ひどい。

1989年、生き残った人々がトロフィモフスクに記念碑を建立

1989年、リトアニアから出発した遠征隊が放棄されて久しいトロフィモフスクにたどり着きました。
遠征隊の方々はトロフィモフスクの埋葬地に記念碑を建立しました。

この記念碑はコンクリートの土台に石で作られたピラミッドです。
ピラミッドの頂上では、いくつものステンレスのパイプが空に向かって伸びています。
パイプの中心、もっとも高い場所では大きな十字架が掲げられています。

まるで十字架の丘から一部分を持ってきたかのようです。

リトアニアの北部、第四の都市シャウレイの北12kmにある『十字架の丘』
参考。リトアニアの北部、第四の都市シャウレイの北12kmにある『十字架の丘』。

1949年には無人島に戻り、1950年代半ばには放棄されたトロフィモフスク。
彼・彼女たちがかつて収容されていたときに犠牲者を葬った埋葬地はすでにボロボロになっていました。
嵐の影響で地面が海に崩れ落ちていたのです。

そこで建てられたのが、この遠征隊の建立した記念碑だったのです。

この時点ではまだソ連

ソ連の崩壊は1991年12月のことですから、リトアニアの遠征隊がトロフィモフスクに到着した時点ではまだソ連です!
つまり、リトアニアは独立しておらず、ソ連の構成国のひとつになっています。

忘れてはならないのは、強制労働収容所から解放された元”囚人”たちが強制労働収容所での体験を口にしてはならないと強いられていたことです。
それでも出発し、記念碑を建立した遠征隊。
決死の覚悟、思いが伝わってくる話ですね……

この記念碑の2022年現在

1989年に建てられたこの記念碑は、2022年現在、残っていません。
2014年の段階でトロフィモフスク島は海(川)に沈みました。
島ごと、記念碑もまた海へと還ってしまったのです……

¡kaona_chan!さんのツイートが参考になるのでご紹介します。

以下のツイートで一枚目と二枚目の画像に、建立された記念碑だと思われるモニュメントが写っています。
三枚目は前述した住居『Jurta(ユルタ)』内部、四枚目は強制労働時代のトロフィモフスクの様子です。

https://twitter.com/koriuaca_USCA/status/1251152725791789063

グーグルマップにトロフィモフスクのレビューが入っている!?

繰り返しになりますが、2022年現在、トロフィモフスク(Trofimovsk)のWikipediaは英語版も含めて存在しません。
ちょっと検索しただけでは出てこないほどのマイナーな場所です。

第二次世界大戦のときはNKVDが駐留していたトロフィモフスク。
2022年現在トロフィモフスク島は海(レナ川)に沈んでしまって存在していません。

ですが、グーグルマップではいまでもトロフィモフスク島の存在を確認することができます。
見るからにヤバい地形すぎて戦慄できますよ……!

ギザギザの三角州がひたすらに点在するだけの極寒の地……。

……よく見ると、レビューが入っている模様……!
星は「2.3」です(※2022年8月現在)。

レビューはいまのところすべて英語です。
トロフィモフスクについて散々な評価を下している内容ばかりが書き込まれています。

日本語に翻訳すると以下のような内容でした。

  • 共産主義者はリトアニア人を嫌っている。
  • 追放されるのに最適な場所ではない。
  • 寒すぎる。

トロフィモフスクに実際に行った方々のレビューというよりも、強制移送・強制移住の歴史を知った人が怒りのあまりに書き込んだレビューに思えますね……

それほど追放の痛みはいまも生々しく生きているのです……。
たとえば日本人のわたしはシベリア抑留の話はいま聞いても腹立たしく思います。
そう考えれば彼・彼女たちの思いは当然のことですね……。

グーグルマップに登録されているトロフィモフスクにはいちおう電話番号があり、「博物館(美術館)」扱いで登録されています。
ただし”施設”はすべての曜日で24時間営業
さらに公式サイトはなんらかのエラーで見られない状態です。

グーグルマップ上では博物館らしいですが、あとかたもない水面をたんに放置しているだけなのかも……!?

ソ連のあやまちは消えることはない

民族浄化と労働力の確保のため、占領地の人々を次々と追放したソ連。
その行き先はおもに辺境の過疎地でした。

そう、文字どおり『シベリア送り』だったのです。

トロフィモフスクの地獄のような生活は、1942年の夏に移住させられたリトアニア人とフィンランド人の命を多く奪いました。
半分の人たちが亡くなったのです。

いま、そのトロフィモフスク島はこの世に存在しません。

かつて埋葬された人たち、記念碑もいっしょに海に沈んでしまいました。

地上から見えなくなったとしても、起こったできごとは決して消えません。
かつて移住させられた人々の痛みは、いまもまだ生々しく生きつづけています。

わたし 鍋弓わた が描いた漫画(同人誌)

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鍋弓わた

歴史漫画の同人作家で歴史好きのイラストレーター。
イラストレーター活動はPBWでもおこなっています。
同人でのサークル名は『極星堂きょくせいどう』。

大阪生まれの奈良在住。
一歳男児を育児中。

このブログの近代史や軍事のページでは、艦船模型雑誌で作例や考証記事を書かれている艦船模型プロモデラー 渡辺真郎(HIGH-GEARed)氏をアドバイザーとしてお招きしています。
※戦争賛美はしていません※

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