イケメンと歴史を愛するイラストレーターの鍋弓わたです。
漫画にしろ、絵にしろ、どうせ描くなら美男美女がいい。
そう思うあまり、ハンス・ヨアヒム・マルセイユの人生を漫画で描いたこともございます。
そのとき日本語で読める書籍はほとんど読みつくしたうえで、ハンス・ヨアヒム・マルセイユの漫画を描きました。
それほど、イケメン撃墜王ハンス・ヨアヒム・マルセイユには本気で魅せられました。
そんなわたし 鍋弓わた が、ハンス・ヨアヒム・マルセイユについて調べたことをまとめました。
必然的に彼の伝記、映画、そしてうちの漫画のネタバレ満載の構成です。
その辺はどうぞご了承ください……。

この下でいきなり結論をいっちゃうよ!
伝記、映画、漫画、彼の人生そのもののネタバレを引きたくない人はここで引き返してね!
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは言わずと知れた、ドイツ空軍のイケメン
彼が活躍したのは第二次世界大戦のとき、北アフリカ戦線という戦地でのこと。
撃墜王(空軍)なので、お仕事は戦闘機に乗って飛び回り、敵の飛行機を墜とすことです。
その結果、158機撃墜という、一般人にはわけのわからないほど恐ろしい撃墜数の記録を残しました。
そんなとっても優秀な撃墜王(エースパイロット)ハンス・ヨアヒム・マルセイユの死因は事故死です。
えっ、うそでしょ!?
ホントなんだなー、これが(涙)。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユはイケメンすぎる撃墜王
ハンス・ヨアヒム・マルセイユはフランス人の血をひくドイツ人
ハンス・ヨアヒム・マルセイユはイケメンすぎる撃墜王(エースパイロット)です。
生まれも育ちもドイツ(ヴァイマル共和国時代)のベルリン、生粋のベルリンっ子です。
ところが彼の苗字である『マルセイユ』はフランスの地名。
身近なものでは『マルセイユ石鹸』が有名(かたよった知識)。
ドイツ人なのにフランスの地名を名乗るとはこれ如何に??
理由は、マルセイユ家がもともとフランスからやってきた家系だから。
マルセイユ家は17世紀末にフランスからドイツに亡命してきた一族
かつてフランスに住む新教徒だったマルセイユ家は、17世紀末『フォンテーヌブローの勅令』によってドイツへ逃れることを選びました。
『フォンテーヌブローの勅令』とは、1685年10月18日に太陽王ルイ14世が発令したもの。
めちゃくちゃ簡単にいうと「これからはみんなカトリックを信仰しろ! 新教徒は許さん!!」という命令です。
『フランスの新教徒』=『ユグノー』であり、『ユグノー』はプロテスタントの中に含まれます。
キリスト教の源流がいちおうはカトリックで、その教えや教会の在り方に抗議した人たちがプロテスタント。
イギリスのプロテスタントが『イギリス国教会』、フランスのプロテスタントが『ユグノー』です。
実際にはプロテスタントにもいろんな教派があるのですが、ひとまずはそんな感じで覚えておくと歴史のおおまかな流れは理解できるはず。
で、この『フォンテーヌブローの勅令』がガチでヤバかった。
フランス国内の新教徒たちは捕らえられ、「カトリックに改宗しろ!」と、拷問による改宗を迫られたのです。
マルセイユ家だけでなく、おおくの新教徒たちがフランスから脱出しました。
このおかげでフランスはたくさんの技術者を失い、経済的には大きな損失を出した大失策となる結果に。
たとえばいま、高級腕時計といえばスイスっていうイメージがあるでしょ。
スイスの腕時計業が発展したのは、このときにフランスの時計技術者(時計師)たちがスイスに亡命したからなんですね~。
ほかにはマルセイユ家が選んだドイツも人気の行き先でした。
なんと、当時のベルリンの人口の三分の一がフランス人になってしまうほど!
それくらいおおくの新教徒たちがドイツに移住したんです。
『フォンテーヌブローの勅令』は1787年11月7日に破棄されています。
破棄したのはルイ16世です。
『ベルサイユのばら』で有名な、王妃マリー・アントワネットの旦那さんですね~。
『ベルサイユのばら』作中では、マリー・アントワネットが惹かれるスウェーデン貴族フェルゼンに比べて、ルイ16世は「穏やかすぎて安心できすぎてつまらない男」……といった印象になりがちでした。
ところがじつはさすがというべきか、興味深い実績がこのようにあったわけですね。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユはナチスドイツも認めたイケメン撃墜王
フランス人の血をひくハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
彼はフランスのオシャレさとドイツの質実剛健さが絶妙にミックスされた、すばらしいイケメン青年に成長しました。
ふつうのドイツ人とはちょっと違う、シュッとした顔立ちをした、かわいらしささえ感じさせる顔立ちです。
はにかんだ笑顔が印象的。
しっかりはっきりした目は曲線を帯びたかたちをしていて、口は大きい。
もちろん歯並びだってキレイ。
写真を見る限りは矯正ではなく、天然もののようです(どこ見とるんや)。
あごのラインがすっきりとしていて、『ペヤング』との愛称で親しまれるレーサー デビッド・クルサードとは正反対の輪郭ラインです。

どっちがいいとか悪いとかの話ではありませんよ! 事実を述べているだけであり、悪意はありません!!
その証拠にデビッド・クルサードはモテモテ男です!!
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの輪郭はフランスのマクロン大統領と系統が似ているような? と個人的には感じます。
ドイツの方々とは違う、いかにもフランス! なラインです。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユのイケメンっぷりはドイツ(ナチスドイツ)も公式に認めていました。
「戦意高揚のため」と作られた、ハンス・ヨアヒム・マルセイユのブロマイドは飛ぶように売れました。
さらにはプロパガンダ映画にまで彼は出演しました。
当時のドイツの雰囲気を思うと、これがどれほど名誉とされることだったかは想像に難くありません。
当時のナチスドイツでは、活躍するエースパイロットたちのブロマイドが戦意高揚のために大々的に売りだされていました。
女性たちはもちろん子供たちもそれらを買い集めていました。
学校に通う子供たちは教室で、トレーディングカードよろしくブロマイド交換会などをしていたようですよ!
撃墜王とは? エースパイロットとどう違うのか?
撃墜王とエースパイロットは同じ意味です。
厨二的に表記するなら【
好きなほうでいいましょう。
撃墜王(エースパイロット)になるには、敵機を5機、墜とすことです。
敵機を5機墜とせば、撃墜王(エースパイロット)と呼ばれます。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの撃墜数は158機といわれています。
5機墜とせばエースと呼ばれる世界。
つまり、5機墜とすことがそれほどむずかしい、ということです。
この前提の中で158機も墜としているなんて、マルセイユの叩き出したこのスコア(撃墜数)がどれほど恐ろしいことなのかが伝わってきます。
ドイツ空軍の撃墜数第一位は352機撃墜のエーリヒ・ハルトマンです。
彼は東部戦線でソ連軍の飛行機を墜としまくりました。
ソ連軍はマルセイユが戦っていた英米機より弱いといわれていますが、それにしても恐ろしい数字すぎます……!
158機撃墜のハンス・ヨアヒム・マルセイユは、第二次世界大戦ドイツ空軍の撃墜数ランキングでは30位の記録保持者です。
意外と下のほうだな~と思われますか?
ただ、ハンス・ヨアヒム・マルセイユが撃墜したのはすべて『西側連合軍機』です。
撃墜数352機でランキング第一位のエーリヒ・ハルトマンが戦っていたソ連軍よりも、マルセイユが戦っていた『英米機』のほうがずっと強かったといわれています。
なんにせよ、5機墜とせばエースと呼ばれる世界なのは変わりありません!
どちらも恐ろしい記録です。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユのプロフィール
フルネーム | ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユ |
スペル | Hans-Joachim “Jochen” Walter Rudolf Siegfried Marseille |
あだ名 | ヨッヘン(Jochen) |
ふたつ名 | 『アフリカの星』『砂漠の王子さま』 |
誕生日 | 1919年12月13日 |
没年 | 1942年9月30日(享年22歳) エジプト エル・アラメイン近郊(シディ・アブデル・ラーマンの村から南に約7km離れた砂漠)にて |
死因 | 事故死 |
最終階級 | 大尉 |
受章歴など | 1940年9月18日 五機撃墜でエースパイロットになる。 1941年11月21日付で『ドイツ十字章金章』受章。 1942年2月22日『騎士鉄十字章』受章。 1942年6月~8月ごろ『柏葉・剣付騎士鉄十字章』受章。 1942年9月3日付で『柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章』を受章したが、現物は受け取っていない。 |
出身地 | ドイツ ベルリン シャルロッテンブルク地区 |
きょうだい | sisterにインゲボルグ(Ingeborg)がいたことは確実。 兄ルドルフがいた可能性も。 |
好きなもの | 女の子たちとにぎやかに遊ぶこと。 ジャズ音楽。とくに『ルンバ・アズール』が大好き。 |
性格 | 楽天家だったが……。 |
あこがれの撃墜王 | 第一次世界大戦のエースパイロット リヒトホーフェン |
特技 | ピアノ |
身長 | 173cmくらい。 |
体重 | 不明。戦争初期は筋トレに励んで筋肉質だったが、戦争で精神的に追いつめられていった結果、どんどんやせ細っていった。 |
体格 | 小柄で華奢。 |
結婚歴 | 結婚歴はないが、婚約者はいた。 婚約者の名前はハンネ・リース・キュッパー(Hanne-Lies Küpper)。 |
子供 | なし |
愛機 | メッサーシュミットBf109F-4/Trop |
マーク | 『黄色の14(エルベ14)』。 第三中隊の14号機、の意味。 |
必殺の戦法 | 偏差射撃 |
撃墜数(スコア) | 英米機のみ158機。 |
ハンス・ヨアヒム・マルセイユはシスコン!? 気になる家族構成
ハンス・ヨアヒム・マルセイユには、シスコン(シスターコンプレックス)といってもいいほどに溺愛した”女きょうだい”がひとりいました。
彼女の名はインゲボルグ(Ingeborg)。
愛称はインゲ(Inge)です。
インゲボルグが「姉」だったのか「妹」だったのかははっきりとしません。
日本語、英語ともにさまざまな文献に当たりましたが、資料によって「姉」「妹」と意見が割れているのが現状です。
日本語資料では「姉」とされることが多く、英語資料では「妹」と書かれがちな傾向があるように思います。
英語では女きょうだいは一律”sister”とされます。
にもかかわらず、あえて「妹」と表記されるということは、「妹だと断定したい」確信があるのかな? と個人的には推測しています。
ちなみに「妹」「姉」ともに資料の数は同数です!
多数決では決められませんでした。
拙作『アフリカの星-砂漠の撃墜王-』では、インゲボルグは「妹」として描きました。
じつはわたしは、幼いハンス・ヨアヒム・マルセイユが同じく幼い女児と写っている写真を見たことがあります。
もしもこの写真にいっしょに写っているのがインゲボルグならば、彼女は「姉」であるのが正解です。
男児のハンス・ヨアヒムよりも、女児のほうがたしかに二歳ほど年上のようでしたから。
しかしながら、この一枚の写真でインゲボルグを「姉」だと断定するのはむずかしいです。
”証拠写真”があるにもかかわらず、「姉」か「妹」か資料で意見がわかれてこんなにはっきりしないのはあまりに解せないんですよねえ。
婚約者ハンネ・リース・キュッパーさんがマルセイユより年上なことを考えると、やっぱり「姉」なのが一理ある……? とも思いつつも。
最愛の姉? 妹? ハンス・ヨアヒム・マルセイユの心の中で生き続けたインゲボルグ
インゲボルグのフルネームは「インゲボルグ・ロイター」だったとわたしは推測しています。
マルセイユは「マルセイユ姓」を名乗っています。
しかしこの「マルセイユ姓」は、マルセイユを育てた実母シャルロッテの離婚した夫の姓なのです。
マルセイユは子供のころは「ロイター姓」で暮らしました。
母シャルロッテが「ロイター」という男性と再婚したからです。
このときに、インゲボルグもロイター姓になったとみるべきでしょう。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは学校を卒業してから「マルセイユ姓」を名乗るようになりました。
インゲボルグが姉だったのか妹だったのか、いまとなっては知るすべがありません。
もしも「姉」だった場合、歳の差は二歳だったといわれています。
はっきりとわかっているのは、インゲボルグがマルセイユにとってとても大切な存在だったということ……。
マルセイユは戦地(北アフリカ戦線)から、インゲボルグに宛てた手紙をたくさん書き送っているんですね。
それだけではありません。
マルセイユは年上の数学教師ハンネ・リース・キュッパーさんと婚約しています。
女遊びが大好きだったマルセイユがたったひとりを選んで彼女との結婚を決意したのは、「ハンネ・リース・キュッパーがインゲボルグと似ていたから」だといわれています。
実際の写真でハンネ・リース・キュッパーさんを拝見すると、マルセイユとはまったくタイプの違うドイツ女性なので……(笑)。
「sisterであるインゲボルグに似ていた」というのは、不思議にも思えるのですが。
それでも、少なくともマルセイユにとってはハンネ・リース・キュッパーさんは「インゲボルグに似ている」と感じられる存在だったんですね。
年上の婚約者であるハンネ・リース・キュッパーさんがインゲボルグに似ていたとするなら、インゲボルグは「姉」なのでは? といいたくなりますが……。
それかめちゃくちゃ包容力のある妹だった可能性もありますね!
マルセイユがある意味もっとも愛した女性ともいえるインゲボルグ。
彼女はいったいどんな人生を歩んだのでしょうか。
ベルリン陥落、第二次世界大戦を生き延び、戦後の人生をマルセイユの分も生きられたのでしょうか。
残念ながら、インゲボルグは早世したようです。
それも、マルセイユより先に。
インゲボルグが亡くなったのは、1941年11月ごろか1942年の初めごろといわれています。
死因は事故死です。
マルセイユが亡くなったのは1942年9月30日ですから、インゲボルグの死から一年弱あとの話です。
ナチスの高級将校クレフトといっしょに乗っていた車(ベンツ)がアウトバーンで無理な飛ばし方をした結果、インゲボルグは事故に遭って亡くなったといわれています。
このとき車を運転していたのは酒に酔ったクレフトです。
ところがクレフトは、「運転していたのはインゲボルグだった」といいはって罪を逃れました。
このときのインゲボルグは「すでに結婚していた」という説もあります。
既婚説が本当だとして、その旦那さんがクレフトだったのか別の男性だったのかは不明です。
当時のマルセイユが22歳前後ですから、その「妹」だとすれば既婚説は誤りかな? と思います。
インゲボルグがマルセイユの「姉」ならば、22歳より2歳年上になるので、既婚説もありえるかもしれませんが……。
それにしてもお若いご結婚ということになりますね。
「第二次世界大戦下の世界」というとずいぶん異世界に思えるかもしれませんが、彼・彼女たちはいまのわたしたちと似た順番でライフステージが展開される世界に生きていたのです。
第二次世界大戦前後のドイツでは、現代の日本のような晩婚化はしていません。
とはいえ、10代の結婚であふれかえっていたような状況でもありません。
20代ごろの結婚が一般的だったのでしょう。
母シャルロッテとの複雑な関係
ハンス・ヨアヒム・マルセイユを生んだ母の名前は、シャルロッテ・マリー・ヨハンナ・パウリーネ・ゲルトルート・マルセイユ(Charlotte Marie Johanna Pauline Gertrud Marseille)です。
ユグノーの末裔である夫ジークフリート・マルセイユとの間に、ハンス・ヨアヒム・マルセイユとインゲボルグをもうけています。
このほか、ハンス・ヨアヒム・マルセイユには兄がいた、ともいわれています。
兄の名前はルドルフ。
パウル・カレル著の『砂漠のキツネ』で「マルセイユに兄がいる」記述を読みました。
が、『砂漠のキツネ』がどれくらい史実に基づいているのかは不明です。
『砂漠のキツネ』以外には、マルセイユの兄についての情報は見たことがありません。
母シャルロッテがジークフリート・マルセイユと離婚したのは、ハンス・ヨアヒム・マルセイユが学校に入ったころのことです。
離婚時期には諸説あります。
ハンス・ヨアヒムが生まれて間もなく離婚→ロイターと再婚、ハンス・ヨアヒムとインゲボルグは「自分たちがロイター姓でないころがあったなんて知らなかった」説もあります。
この場合、ハンス・ヨアヒムが”事実”を知ったのは15歳のころ(1934~1935年)のことだとされています。
夫ジークフリート・マルセイユと離婚したシャルロッテは、マルセイユ姓を名乗るのを辞めました(離婚したので当然ですね)。
父を失い、マルセイユ姓も失い、ハンス・ヨアヒムはだいぶ情緒不安定になったようです。
もともと体は強くなく、幼いときにはインフルエンザで危うく死にかけるほど病弱で、かんしゃくを起こしては泣き叫ぶ少年だったハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
彼は心のバランスをさらに崩して思い悩む日々を送るようになってしまったのです。
シャルロッテはのちに警察官(ベルリン警察中尉ともいわれる)カール・ロイター(Reuter)と再婚します。
が、ここで気になる情報が。
「シャルロッテはふたたびマルセイユ姓を名乗るようになった」との説があるんですね。
再婚とふたたびのマルセイユ姓、前後関係ははっきりしません。
マルセイユ姓をふたたび名乗るようになったあと、警察官カール・ロイターと再婚したのでしょうか。
まさかロイター氏と再婚したあとにマルセイユ姓をふたたび名乗ることはないと思うのですが……。
シャルロッテがマルセイユ姓をもういちど名乗ったことで、ハンス・ヨアヒムはもともとの明るい性格を少しずつ取り戻していきました。
義父カール・ロイターとの冷え切った関係
シャルロッテの人生に関する時系列は不明な点が多いです。
しかしながら、かつての夫ジークフリート・マルセイユと離婚したこと、再婚相手が警察関係者カール・ロイター氏であったことは、複数の資料で触れられているので事実だと考えられます。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユにとって義父・養父となるカール・ロイター氏。
彼とハンス・ヨアヒムの関係はいったいどんなものだったのでしょうか。
独裁者スターリンの父子関係ほど露骨な”いじめ”はなかったにせよ、ハンス・ヨアヒム・マルセイユとカール・ロイター氏との関係も冷え切ったものだったようです。
ハンス・ヨアヒムはロイター氏について、一般的に父親に対する敬意は持っていました。
その一方でハンス・ヨアヒムは、義父にある種の不満を覚えていました。
とはいえ、強い憎悪などではありません。
これは、思春期の子供たちがごく普通に抱く感情のひとつです。
ところが、この感情がハンス・ヨアヒムの人生を変えてしまいました。
ハンス・ヨアヒムにふたつの決意をさせたからです。
- 決意1:苗字を『ロイター』から『マルセイユ』に改姓すること。
- 決意2:実の父親であるジークフリート・マルセイユと再会すること。
このようにハンス・ヨアヒムがおのれの意志で生きようとする一方で、カール・ロイター氏は継子の自立心をどのようにとらえていたのでしょうか。
広い心で受けとめる――とはどうやらいかなかったようです。
ロイター氏は、義理の息子の成長を手放しで喜ぶことはできませんでした。
ロイター氏はのちに、ドイツ空軍に入ろうとする18歳のマルセイユの決意にも”いちおうは”反対をしています。
猛反対をしたわけではないですし、かといって手放しで応援したわけでもないのがポイントです。
複雑な気持ちを抱く継子関係だったのがわかりますね。
ちなみにこのとき、母シャルロッテもハンス・ヨアヒムの「ドイツ空軍に入る」決意にはゆるく反対しています。
実父ジークフリート・マルセイユがハンス・ヨアヒム・マルセイユに女遊びを教えた
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが長らく会っていなかった、実の父親ジークフリート・マルセイユ。
フルネームは、ジークフリート・ゲオルグ・マルティン・マルセイユ(Siedfried Georg Martin Marseille)です。
ジークフリート・マルセイユとはいったいどんな人だったのでしょうか。
いま現在わかっている情報は以下のとおりです。
- マルセイユ家――ユグノーの家系――であること。
- 少将の位を持つ軍人であったこと(※陸軍または空軍で諸説あり)。
- 女遊びの激しい人であったこと。
- シャルロッテと離婚後、別の女性と再婚していること。
- 1944年1月にスターリングラードで戦死していること。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが亡くなったのは、1942年9月30日のこと(享年22歳)。
ハンス・ヨアヒムは、実父ジークフリート・マルセイユよりも早くに亡くなってしまったのですね。
『アフリカの星』とうたわれたハンス・ヨアヒムは、ナチスドイツがバリバリにプロパガンダをうって売りだす有名人でした。
おそらく否が応でもその死を知ることになったであろうジークフリート・マルセイユは、父親としていったい何を思ったのでしょうか。
いまとなっては知る由もありません。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが実父ジークフリート・マルセイユと再会したのは、1938年の夏のことだといわれています。
彼は18歳の立派な青年になっていました。
『国家労働奉仕団』の一員としてブレーメンで活動していたハンス・ヨアヒム。
このキャンプにジークフリート・マルセイユが少将として視察にやってきたことが、親子の再会のきっかけです。
実父ジークフリート・マルセイユは、息子ハンス・ヨアヒムを散歩に誘いました。
ところが、ハンス・ヨアヒムはこれを拒否!!
ハンス・ヨアヒムは養父カール・ロイター氏だけでなく、実父ジークフリートに対しても不満を持っていました。
「実の父親のくせに彼はぼくに対して不当な扱いをおこなっている! 再婚した女といっしょになって――!」
……と、ハンス・ヨアヒム・マルセイユは感じていたようです。
「実の父親に捨てられた」――そんな印象があったのかもしれません。
けっきょく、中隊長がハンス・ヨアヒムに命令することによって、彼は実の父親と散歩せざるを得ないことになりました。
この一連の騒ぎを、実父ジークフリート・マルセイユはどのように感じたのでしょう。
さぞや腹立たしく思ったのでは?
ところが、ジークフリート・マルセイユはこれを喜んだのです!
「息子は立派に成長している!」と。
この点、養父カール・ロイター氏よりもジークフリート・マルセイユ少将のほうが実の父親として愛情に富んでいたといえるのかも……
ジークフリート・マルセイユ少将は、ハンス・ヨアヒムとの”溝”を埋めるべく最大限に努力しました。
いろんな話を振ってみて、ハンス・ヨアヒムがどんな話題を好むのかを調査、研究しました。
すぐにわかったのは、ハンス・ヨアヒムが「飛行」についての話を好んだことです。
実父ジークフリート・マルセイユ少将は、陸軍だったとも空軍パイロットだったともいわれています。
実父ジークフリート・マルセイユは、息子ハンス・ヨアヒムに対し、第一次世界大戦でおのれが飛行機に乗って飛んだ話を語って聞かせました。
それは、第一次世界大戦のエースパイロットであるリヒトホーフェンにあこがれるハンス・ヨアヒムを瞬時に魅了しました。
数か月たつころにはハンブルグで実父ジークフリート・マルセイユと会うくらい、ハンス・ヨアヒムとジークフリート・マルセイユ少将との距離は縮まっていました。
ところが、ハンス・ヨアヒムは実父ジークフリート・マルセイユを嫌うようになってしまいます。
その決定打となったのは、ジークフリート・マルセイユがハンス・ヨアヒムに女遊びを教えたことでした。
ジークフリート・マルセイユ少将は、息子をバーに連れて行ったのです。
一軒だけでなく、何軒ものバーをめぐりました。
そこでジークフリート・マルセイユ少将は、何人かの女性をハンス・ヨアヒムに”紹介”しました。
”一夜限りの恋人”としてお膳立てしたって感じでしょうか……
これは、ハンス・ヨアヒムの心を傷つけました。
その女性たちとのやりとりの中で、こういう話に乗ってくる女性がいったいどのようなタイプの人間なのか、ハンス・ヨアヒムは知ってしまったのです。
母シャルロッテやsisterインゲボルグから過保護といえるくらいにかわいがられ、かまわれてきていたハンス・ヨアヒムにとって、それはとても衝撃的でした。
ハンス・ヨアヒムは激怒してベルリンに帰りました。
その後、彼が実父ジークフリート・マルセイユと会うことは二度とありませんでした。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの死因
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが亡くなった1942年9月30日の流れ
『アフリカの星』『砂漠の王子さま』とうたわれた撃墜王(エースパイロット)ハンス・ヨアヒム・マルセイユの死因は事故死です。
旧型の愛機から新型の飛行機に乗るように命令され、その飛行機で偵察任務に出た結果、機体の不具合で墜落を余儀なくされました。
編隊を組んでいた味方機はいましたし、マルセイユが自分で無線を使い、地上と連絡を取ったりもしました。
が、けっきょく彼を助けることはだれにもできませんでした。
急降下爆撃機『スツーカ』の護衛任務の帰りにおこった事故(墜落)だったともいわれています。
1942年9月30日、エジプトのアレクサンドリアから西に約100km離れたエル・アラメイン上空で悲劇は起こりました。
このとき、快晴のなか、ハンス・ヨアヒム・マルセイユの右側には砂漠、左側には地中海が見えていたと思われます。
ドイツ軍が目印にしている、シディ・アブデル・ラーマン(Sidi Abdel Rahman)の白いモスクを過ぎて、まもなくドイツ軍の制空圏内に入ろうとしたとき。
マルセイユの乗る新型機メッサーシュミット『Bf109G』のエンジンがみょうな振動を起こし、排気管から黒煙を吹き出し始めました。
シディ・アブデル・ラーマンは現在、エジプト西部の砂漠にあるうつくしい村です。
ビーチが広がり、リゾートによいとか。
アルアラマイン国際空港からは24km(15マイル)です。
シディ・アブデル・ラーマンはかつて第二次世界大戦時に仕掛けられた地雷が数多く残り、戦後の開発に苦労した歴史があります。
ここをなんとか乗り越え、村にはいま観光ホテルなども建てられています。
かつての上官エドゥアルト・ノイマンが建立した、ハンス・ヨアヒム・マルセイユの墓は、この村から南に約10km進んだところです。
歴戦の撃墜王であるハンス・ヨアヒム・マルセイユは、すぐにエンジントラブルを悟ったようです。
僚機も異常をすぐに理解して、マルセイユが自由に操縦するためのスペースを開けました。
僚機は「
しかしここはまだギリギリ敵軍の制空圏内です。
不時着などしたら、158機を撃ち落としてきた彼などどうなるか――……。
ドイツ軍の制空圏内にはあと10分で着きそうです。
そこまでいけば不時着しても安全(というと語弊がありますが……)。
「ドイツ軍の制空圏内にたどり着くまであと10分間は飛ぶ」とマルセイユは答えました。
ところがすぐにエンジンはまともに回転しなくなり、そればかりか機内に充満した黒煙でいまにも窒息しそうです。
「脱出する」といったマルセイユは、安全ベルトを外してキャノピー(飛行機の窓兼扉)を開けました。
次に機体を上下さかさまにします。
これは脱出を確実なものにする定番の方法です。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは「脱出するときには思い切って空中に飛び出さないと失敗する」ことをよく知っていました。
彼にはおおくの戦友がいたので、そこからそういったことを学んでいたのです。
撃墜された経験はマルセイユ自身にも6回あります。
…………ちなみに「失敗」というのはこの場合、機体に体が張りついて(たたきつけられて)命を落とすことを意味します。
怖すぎる……。
上下さかさまになった新型機メッサーシュミット『Bf109G』。
トラブルを起こして黒煙を吹きつづける『Bf109G』はマルセイユの操縦に逆らい、突然に頭側を下にしたほとんど垂直(70~90度)になっての降下を始めました。
このときの速度は時速400~650kmに達したといわれています。
速度がここまでの数字に到達していたことや、機が急降下状態になっていることに、マルセイユは気づいていなかったといわれています。
あまりにひどい煙のせいで物理的に視界が悪かったこと、肉体的に方向感覚を軽く喪失していたことが原因です。
なんとか空中に出たハンス・ヨアヒム・マルセイユの体はプロペラの後流で後ろ側に飛ばされて、左胸部を垂直尾翼にたたきつけられました。
このときに彼は意識を失った、または即死した、とされています。
パラシュートを開くことさえできなくなったハンス・ヨアヒム・マルセイユは、そのままおそろしいほどの高速で地面に墜落しました。
ここはシディ・アブデル・ラーマンの村から南に7km離れた砂漠です。
現場の近くに配置されていたビック軍医は、マルセイユの墜落を目撃しています。
いちばんにその地点にたどり着いたビック軍医は、すでに墜死している撃墜王が身に着けていた勲章『柏葉・剣付騎士鉄十字章』と給与帳から、彼がだれであるかを確信せざるを得ませんでした。
マルセイユの体を実際に引き取ったのは、ルートヴィヒ・フランチスケット中尉です。
マルセイユの横たえらえられた病室では、彼が生前好んだレコード『ルンバ・アズール』が流されつづけました。
1942年10月1日、マルセイユの葬式がおこなわれています。
このお葬式には、ある意味「マルセイユの死の原因をつくった」ともいえるアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥も参列しています。
ケッセルリンク空軍元帥のほか、エドゥアルト・ノイマン少佐もマルセイユに賛辞をささげました。
デルナの英雄墓地に、マルセイユはいったん葬られました。
戦後、直属の上官だったエドゥアルト・ノイマンは、マルセイユの死を悼んで彼のための墓――小さなピラミッド型の――を建立しています。
これは、シディ・アブデル・ラーマンから南に約10km進んだところです。
死の直後にマルセイユが葬られた街・デルナ(またはダルナ)は現在、リビア東部に位置する都市です。
地中海に面する港町で、肥沃な土地と豊かな森林、地中海を一望できる山地や滝があります。
第二次世界大戦時の北アフリカ戦線では、枢軸国と連合国でデルナの街を取り合う状況がつづいていました。
マルセイユが亡くなった1942年9月30日時点では、ドイツ軍が再占領しています。
イギリス軍がデルナの街を取り戻したのは、1942年11月15日のことです。
ちなみに戦後何十年もたった2011年、リビア内戦の初期に反カダフィ派の支配下に入ったデルナは、そのあと内戦終結までずっと反カダフィ派の拠点でありつづけました。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの死の背景、その原因とは?
愛用の旧型機ではなくエンジントラブルの絶えない新型機に乗ることによって、事故死してしまった撃墜王(エースパイロット)ハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
「新型のほうが優れているので、新型の飛行機に乗り替えなさい」と、ハンス・ヨアヒム・マルセイユは軍からずっと指示されていました。
「いいえ、こちらの旧型のほうが慣れているので」と、マルセイユはそれを断りつづけていました。
ところがあるとき、断ることができなくなってしまったのです!
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが所属していた北アフリカ戦線の
そのトップであるアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥から「新型機に乗りなさい」と命令されたのです。
北アフリカ戦線のトップというと、あの有名な『砂漠の狐』エルヴィン・ロンメル将軍を思い浮かべてしまいますでしょ。
ところがほかにも”エラい人”はいたんですね~。
で、撃墜王であるハンス・ヨアヒム・マルセイユは空軍所属ですから、現場でもっともエラいケッセルリンク空軍元帥から命令されると聞きいれるしかありません。
ケッセルリンク空軍元帥は「優秀な撃墜王であるハンス・ヨアヒム・マルセイユを死なせたくない」思いから、彼に対して新型機に乗ることを命令しました。
旧型の『メッサーシュミットBf109F』よりも新型の『メッサーシュミットBf109G』のほうが防弾性能がアップしていました!
マルセイユが乗り換えるようにいわれた段階の時期では、新型機メッサーシュミット『Bf109G』は、いまだエンジントラブルが絶えない、とのおそろしい評判があるものでした。
「マルセイユを守るために」とくだされた命令が、逆に彼の命を奪ってしまうとはなんとも皮肉なことです。
マルセイユの死後、新型機のメッサーシュミット『Bf109G』はおおくの派生型が開発されました。
これまでの『Bf109F』に代わり、後期の空戦でドイツ空軍の主力機となったのは『Bf109G』です。
1942年9月30日にハンス・ヨアヒム・マルセイユが事故で墜落死してしまったあと、残った機体ももちろんすぐに回収されました。
この機体はなぜ墜落したのか? その調査が大急ぎでおこなわれました。
初めての任務としてマルセイユを乗せた『Bf109G』の製造番号14256のこの機体が墜落した原因は、オイル漏れによる差動ギアの破損だと結論づけられました。
何本も折れた平歯車の歯が、オイルに火をつけた……のがその詳細であるとされています。
サボタージュや人的ミス、「だれかが故意にこの機体を故障させたわけではない」というわけです。
つまり彼の功績をねたんだ者による暗殺などではなく、純粋な事故死であるのだと。
「トラブルが絶えない」とされる機体に乗る羽目になり、まさにそのトラブルに巻き込まれて、マルセイユは亡くなることになってしまったのです……。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユがドイツ空軍に入るまで
8歳のときに飛行機の絵を描き、14歳のときにパイロットをこころざす
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、小さなころから空を飛ぶこと、飛行機に乗ることにあこがれを抱いていました。
8歳のときには飛行機の絵を描き、14歳のときには「将来はパイロットになる」と心に決めたのです。
病弱でかんしゃくもち、小さな体だったハンス・ヨアヒム・マルセイユが、両親の離婚や再婚に翻弄されて心を痛めたり、「母親代わり」といわんばかりに”女きょうだい”インゲボルグに依存していくのは、父母およびインゲボルグの項目で説明したとおりです。
10歳~16歳の間に在籍したギムナジウム(寄宿学校)では、いたずらっ子として名をはせました。
好きな科目は体育で、幾人もの腕白小僧のリーダーとして賑やかに過ごします。
当時、ギムナジウムの校長だったベッツォルト博士は、日々届く”苦情”に頭を悩ませていたようです。
校長ベッツォルト博士は、マルセイユを叱咤激励して適切に導いていきます。
その結果、マルセイユは成績優秀者になることと、いたずらっ子たちのヒーローになることを両立させていきました。
楽天家の陽キャ、小柄でわんぱくなハンス・ヨアヒム・マルセイユ少年の姿が目に浮かびますね~。
ギムナジウム時代あたりの学歴には諸説あります。
少女漫画描きとしては「ギムナジウム」に往年の少女漫画的ロマンを感じるので、こちらの経歴を今回は紹介いたしました。
1938年4月~9月まで、すでにギムナジウムを卒業していたハンス・ヨアヒム(18歳)は『国家労働奉仕団』の一員としてブレーメンで活動します。
実父ジークフリート・マルセイユ少将と再会ののちに決裂することになったのは、この年の夏のことです。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが入隊前に所属していた『国家労働奉仕団』とは?
『国家労働奉仕団(略称RAD)』とは、ナチスドイツで失業対策として設立された労働組織、職業訓練団体です。
名目は労働組織ですが、ドイツ軍の支援をおこなう補助機関であり、準軍事組織というのが『国家労働奉仕団(RAD)』の実態でした。
『国家労働奉仕団(RAD)』には男性だけでなく、女性が所属する部門もありました。
『国家労働奉仕団(RAD)』では専用の制服が用意されていました。
デザインはまるで軍服!
制服のデザインだけで見れば軍人と見分けがつかない雰囲気です。
所属可能年齢は17歳~25歳までで、人種は(アーリア系)ドイツ人限定です。
活動期間は6カ月です。
その間、さまざまな労働奉仕活動をおこないます。
具体的には市民サービスに携わったり、公共事業や農業計画への従事です。
ドイツのあの有名な高速道路『アウトバーン』の建設をおこなったのも『国家労働奉仕団(RAD)』なんですよ(1939年、ポーランド侵攻以前)。
ただし、ナチスドイツの敗色濃厚となった1945年には『国家労働奉仕団』の所属期間は短縮され、活動内容は軍事訓練のみとなりました。
『国家労働奉仕団(RAD)』は敗戦まで組織として生き残りました。
1944年9月25日に発足した『国民突撃隊』に吸収される可能性があったものの、『国家労働奉仕団(RAD)』の総裁コンスタンティン・ヒールルがそれを拒んだためです。
ヒールルは地位と権力を失うのがイヤだったんですね。
ヒールルは戦後、有罪判決を受けています。
労働強制収容所で5年を過ごしたあとは、天寿を全うしました。
1955年9月23日にハイデルベルクで死去しています(1875年9月23日生まれ、享年80歳)。
ちなみにナチスドイツが敗色濃厚となった1944年9月23日に発足させた『国民突撃隊(Deutscher Volkssturm、「ドイツ市民軍」の意)』は、ドイツ本土防衛に備えた軍事組織です。
所属したのは、下は16歳から上は60歳までの民間人です。
※ナチスの準軍事組織『突撃隊(Sturmabteilung、略称SA)』と『国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)』は別の組織なので注意!
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは初めての撃墜を悲しんだ
撃ち落とす敵兵がだれかの大切な人であることを知っていたハンス・ヨアヒム・マルセイユ
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは楽天家、陽キャで、いつも明るくはにかみながら笑う好青年に成長しました。
さて、『国家労働奉仕団』を卒団した彼は、祖国ドイツのために嬉々として敵兵を殺害(撃墜)しまくる優秀なドイツ兵になったのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、初めての撃墜を悲しむほどに繊細で心優しい青年だったのです。
ハンス・ヨアヒムは初陣を飾ったバトル・オブ・ブリテンで敵機を初めて撃墜したとき、母シャルロッテに手紙を書き送っています。
Today I shot down my first opponent. It does not set well with me. I keep thinking about how the mother of this young man must feel when she gets the news of her son’s death. And I am to blame for his death. I am sad,instead of being happy about the first victory. I always see the face of the Englishman in front of me and think about his crying mother.
Colin Heaton, Anne-Marie Lewis[2012]『The Star of Africa: The Story of Hans Marseille, the Rogue Luftwaffe Ace Who Dominated the WWII Skies (English Edition)』
わたし流に翻訳(意訳)をつけてみますね。
今日、ぼくは最初の敵を撃墜した。
ぼくはこの事実をうまく受けとめられないでいる。
この若い男の母親が息子の死のニュースを受け取ったときにどのように感じるのか、ぼくはそればかりを考えつづけている。
彼の死はぼくのせいだ。
ぼくは最初の勝利に酔えない。ただ、悲しい。
敵機に乗るイギリス人の顔を見るとき、ぼくは泣いている母親のことを考えている。
…………これが、なんと最初の撃墜、つまり手柄を立てたときのマルセイユの感想です。
やったー! 敵をやっつけたー! しかもワイちゃん、ちゃんと生きとるで!
……と喜ぶのではなく、みずからが殺した相手のこと、その母親のことを思って涙しているのです。
こんなに優しい人がのちに累計158機撃墜のスコアをたたき出すなんて、どれほどおのれを傷つける行為だったことだったのでしょう。
後世に生きるわたしには想像してもしきれないですし、ただただ彼の痛みを思うとつらくなるばかりです。
こうして、みずからが「だれかの大切な人を殺している」事実に打ちのめされていくマルセイユは、北アフリカ戦線でじょじょに心を病んでいくのです。
「泣いている母親のことを考え」ながら158機を撃ち落としていくなど、どれほど重い精神的苦痛なのか……!
マルセイユのこの優しさは、のちに彼の死因のひとつになっていきます。
心優しい青年だったがために、戦争で心を病んでいったハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
戦闘能力に精彩を欠くようになり、しだいにその絶対的な力は衰えることになっていくのです。
もしも彼が心を病まなければ――もっと「生」に執着して、事故死することなく天寿を全うすることができたのかもしれません。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが初陣を飾ったバトル・オブ・ブリテンとは?
わりと映画化されたりしていて聞いたことがあっても、いざ「どんな戦い?」と訊かれると答えづらいバトル・オブ・ブリテン。
これは、第二次世界大戦時におこなわれた、ドイツによるイギリスへの攻撃(航空戦)です。
目的を達することなく、ドイツはあきらめて帰っていきました。
イギリスの勝利です。
『バトル・オブ・ブリテン』の戦いがおこなわれたのは、1940年7月10日~10月31日までです。
ドイツはイギリスの本土上陸作戦を計画していました。
そのためにはまず、イギリスの制空権を獲得する必要があります。
この制空権獲得のために、激しい航空戦が展開されたのです。
これが『バトル・オブ・ブリテン』、ドイツ語では『Luftschlacht um England(イングランド航空戦の意)』と呼ばれる一連の戦いです。
『バトル・オブ・ブリテン』のあと、ナチスドイツは独ソ戦へと突っ走っていきます。
『独ソ戦』または『東部戦線』は、1941年6月22日~1945年5月8日までのことです。
一方『北アフリカ戦線』は1940年9月13日~1943年5月13日までおこなわれています。
もちろん、どちらもナチスドイツの負けですよ~。
余談ですが、バトル・オブ・ブリテンと北アフリカ戦線が始まった1940年は昭和15年です。
この年は建国2600年を意味する皇紀2600年でもありました。
大日本帝国では『紀元2600年祝典』『紀元二千六百年記念行事』がおこなわれています。
戦艦大和が進水したのはこの年の8月8日のことです。
一方、リトアニアでは杉原千畝氏がユダヤ人のために独断でビザの発給をおこなっています。
太平洋戦争前ではありましたが、歴史は激動期を迎えていました。
大日本帝国が真珠湾攻撃をして太平洋戦争が開戦するのは、翌1941年(昭和16年)のことです。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人1:ハンス=アーノルト・シュタールシュミット
もともと楽天家の明るい陽キャだったハンス・ヨアヒム・マルセイユには、たくさんの女友達と男友達がいました。
そのなかのひとりが、ハンス=アーノルト・シュタールシュミット(Hans-Arnold Stahlschmidt)です。
『ハンス=アーノルト』の名前から愛称を推測すると、『アルノ(Arno)』あたりでしょうか。
シュタールシュミットも、北アフリカ戦線で59機撃墜の記録を残した撃墜王(エースパイロット)です。
1920年9月15日生まれ、1942年9月7日没とされています。
シュタールシュミットは戦闘中に行方不明となり、22歳の誕生日の一週間前にその生涯を終えました。
わたしは感傷的な人間なので、「行方不明」と聞くと「どこかで生きていてほしい!」と夢見たくなってしまいます。
しかしながら、シュタールシュミットは1942年9月7日付で死没と結論づけられているんですね。
それに、戦闘中の行方不明はしばしばあること。
戦争って悲しいです……
ハンス・ヨアヒム・マルセイユが亡くなったのは、1942年9月30日のことです。
つまり、シュタールシュミットが亡くなってから2週間後のことなんですね。
これまでにも友人を失い、さらに大切な友であるシュタールシュミットが行方不明になったことは、マルセイユの精神に大きなダメージを与えました。
このあとからマルセイユの戦闘能力は精彩を欠くようになっていきます。
飛行を禁止されたりドイツ本国への帰国を勧められても、ハンス・ヨアヒム・マルセイユは「祖国と仲間を守るため」と、戦うことをやめませんでした。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人2:ギュンター・シュタインハウゼン
ハンス=アーノルト・シュタールシュミットと並び、ハンス・ヨアヒム・マルセイユにとって仲のよかった友人が、ギュンター・シュタインハウゼン(Günter Steinhausen)です。
愛称は「Gunni」「Günni」「Gunna」あたりを推測しています。
シュタインハウゼンとシュタールシュミットは、ハンス・ヨアヒム・マルセイユのおおくの友のなかで、とくに仲のよかった戦友です。
シュタインハウゼンもまた、59機を撃墜した記録を持つシュタールシュミットに負けず劣らずの撃墜王(エースパイロット)でした。
ギュンター・シュタインハウゼンの撃墜記録は40機です。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの「158機撃墜」記録が異常なのであって、「5機墜とせばエースと呼ばれる世界」なのを忘れてはいけません(戒め)
ギュンター・シュタインハウゼンは1917年9月15日生まれで、シュタールシュミット(1920年生まれ)と年齢は違っていたけれど、同じ9月15日生まれでした。
そんなきっかけもあって、ふたりが意気投合するのは早かったかもしれませんね!
シュタインハウゼンは1942年9月6日に撃墜されて亡くなりました。
マルセイユのもうひとりの友人であるシュタールシュミットが行方不明になったのは、翌9月7日のことです。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの悲しみはいかばかりだったことでしょう。
ギュンター・シュタインハウゼンを撃墜したエースパイロットは2022年5月14日まで存命だった
ギュンター・シュタインハウゼンを撃墜したエースパイロットの身元は判明しています。
カナダの撃墜王で、ジェームズ・フランシス・エドワーズ(James Francis Edwards)という人物です。
撃墜記録は19機。
1921年6月5日生まれのジェームズ・フランシス・エドワーズは、2022年5月14日に亡くなりました。
享年100歳です!
戦後も1972年までカナダ空軍にとどまり、軍隊をやめたあとは第二次世界大戦時の体験を本にして出版しています(『Kittyhawk pilot: Wing Commander J.F. (Stocky) Edwards』1983年)。
2009年には『航空業界で最も影響力のある100人のカナダ人のひとり』として表彰されています。
優秀な人だったのが伝わってきますね。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人3:ルートヴィヒ・フランチスケット
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人はみんな戦死したのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
生き残った人もいます。
そのなかのひとりが、ルートヴィヒ・フランチスケット(Ludwig Franzisket)です。
愛称は『ルーイ』や『ルー』あたりでしょうか。
フランチスケットの名前(姓)は日本語では数種類の表記ゆれがあります。
このブログで採用している『フランチスケット』のほか、『フランツィスケット』『フランツェッケット』など。
日本人にはあまり聞きなれない響きですもんね~。
ルートヴィヒ・フランチスケットは、墜死したマルセイユのご遺体を砂漠から回収した人でもあります。
フランチスケットがいたのは、北アフリカ戦線という戦場です。
いくつもの死を見てきたことだとは思います。
けれど、『アフリカの星』とうたわれた友が墜ちて亡くなり、その体を直接引き取りに行って、「いま亡くなった」事実を突きつけられてるなど、どれほどつらいことだったでしょうか。
フランチスケットは1917年6月26日生まれ、死没は1988年11月23日ですので、戦後までちゃんと生き抜いています。
撃墜記録43機の彼もまた撃墜王(エースパイロット)です。
なんなんでしょう、優秀な人の友人もまた優秀な人ばかり。
「類は友を呼ぶ」というやつでしょうか。
生きて終戦を迎えたルートヴィヒ・フランチスケットは、ミュンスター大学に入学します。
卒業後は生物学の博士としてはたらきました。
これだけ聞くと、フランチスケットの人生はハッピーエンド?
いいえ、そんなことはありません。
フランチスケットは、友人ハンス・ヨアヒム・マルセイユのほかに弟マックス(Max)を戦争で亡くしています。
マックス・フランチスケットは1918年8月22日生まれ。
亡くなったのは1943年7月19日、「地獄」と呼ばれた東部戦線で撃墜されてのことです。
弟マックスも兄ルートヴィヒと同じくパイロットだったのです。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人4:ヴェルナー・シュレーア
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの友人としていっしょに写っている写真も残っているヴェルナー・シュレーア(Werner Schroer ※姓は1968年以降『Schröer』表記)。
彼もまた優秀な撃墜王(エースパイロット)です。
北アフリカ戦線で、ハンス・ヨアヒム・マルセイユに次ぐ撃墜記録を残しました。
累計スコアは114機です。
シュレーアはマルセイユとは違う飛行中隊(第8飛行中隊)の中隊長です。
ですので、マルセイユと同じ中隊(第3飛行中隊)で戦ったわけではありません。
1918年2月12日生まれのヴェルナー・シュレーアは第二次世界大戦を生き抜き、1985年2月10日に66歳で亡くなりました。
とはいえ戦争が終わってすぐに平穏無事な生活を送れたわけではありません。
シュレーアは戦後、イギリスに拘禁されてしまったのです。
解放されたのは1946年2月7日のこと。
そのあとはフランクフルトでタクシー運転手になりました。
さらに大学に通い、経営学修士を取得。
家族とともにイタリア・ローマに引っ越して、そこで仕事をして暮らしました。
マルセイユの生き延びたもうひとりの友人・フランチスケットも戦後、大学に入っていましたね。
この流れはヴェルナー・シュレーアも同じなのです!
戦時中は「撃墜王! エースパイロット!! キャー☆」ともてはやされる彼らのたぐいまれなスキル。
それは、戦争が終わってしまうと生活の糧にはならないということの証明ですね。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユの世話係:黒人の青年マティアス
北アフリカ戦線では、ハンス・ヨアヒム・マルセイユの身の回りの世話をした黒人の従卒がいました。
それが、マティアス(Mathew “Mathias” Letulu)です。
もとの名前を「マシュー」といった彼は、もっぱら「マティアス」の愛称で呼ばれていました。
アラブ人で、つまり現地人であるマティアス。
彼は、「自分たちを戦争に巻き込んでいる」といってもいい存在であるドイツ軍に所属しているマルセイユを、心から慕いました。
マルセイユの死後は、ルートヴィヒ・フランチスケットにその安全を託されています。
そのおかげで、マティアスは第二次世界大戦を生き残りました。
みなさまご存じのとおり、ナチスドイツはアーリア人至上主義で民族弾圧上等でした。
黒人(アラブ人)であるマティアスも、迫害される対象のなかのひとりだったのですね。
にもかかわらず、マティアスに優しく接したマルセイユ。
その死後は彼を保護した、友人フランチスケット。
たとえ国家の気がふれている状況であったとしても、本当に心ある個人の思想まで縛ることなどできないのでした。
わたし 鍋弓わた は、戦争と民族弾圧には一貫して反対の立場ですよ!
ナチスドイツのおこないを肯定することはいっさいしていません。
マルセイユの死後からおよそ半世紀たった1989年、マルセイユの墓として建立された小さなピラミッドの落成式。
マティアスはそこに参列しています。
マルセイユをはじめとする中隊のメンバーは、みんなでマティアスをかわいがっていたのでしょうね。
それゆえにマティアスはマルセイユたちのことを心から信じたのだと思います。
設定とかデータというより、人対人の関係で、けっきょくは心が通じ合うか? というところで人間関係はつくられていくのですね。
イケメン撃墜王ハンス・ヨアヒム・マルセイユの生涯と死因は悲しい

第二次世界大戦当時もいまも「イケメン」とうたわれる、天才的なエースパイロット ハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
彼の死因は、命令で新型機に乗り替えさせられたうえでの事故死(墜死)というあまりに悲しいものでした。
死に至るその日まで必死に戦いつづけ、合計158機の英米機を墜としたハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
彼は少しずつ心を病んで、その戦いの”精度”はじょじょにおとろえていきました。
そしてついには、「マルセイユを守るために」と出された命令――「新型機に乗り替えよ」――によって事故死してしまうのです。
享年22歳。
死ぬには早すぎます。
悲しすぎます。
おおくの敵機を墜とし、おおくの人間を殺したハンス・ヨアヒム・マルセイユは死んで当然だ! ――とあなたはいいますか?
わたしには、そんなこといえやしません。
戦争賛美はしません。
わたしは一貫して戦争には反対の立場です。
とくにナチスドイツの戦争犯罪は決して許されるものではありません。
けれども、それらのことと、マルセイユが生きた意味を否定する行為は同一ではないのです。
祖国や愛する人たちのために戦いつづけた彼の生き方を、わたしは肯定したいです。
「戦うなんて無駄だった」と、歴史や史実を知っている後世のわれわれが安全な場所から簡単に断罪するのは、あまりに傲慢ではないでしょうか。
そりゃ、彼は158機の英米機を墜としました。
(こと切れる前に脱出して)助かった人もいるでしょうが、たぶん100人は結果的に亡くなっているのでは?
その事実は、心を病むまでに思いつめたマルセイユ自身がいちばんよくわかっていることです。
未来の祖国がどうなるかわからないなか、愛する人々を守ろうとメッサーシュミットBf109Fをひたすらに駆り、戦うことと殺すこと、守ることの矛盾に苦しみつづけたハンス・ヨアヒム・マルセイユ。
命の底から最後の最期までもがいて、それでもおのれの心を殺しながら戦おうとした彼の生きざまを、わたしはそのまま受け止めたいです。
女きょうだいインゲボルグとハンス・ヨアヒム・マルセイユ、ふたりのわが子を立て続けに亡くした父母の悲しみについても計り知れないものがあります。
子供を持つ前からその事実にはゾッとしていましたが、子を持ついまとなってはよりいっそう胸に迫るものがあります。
せめて、パウル・カレル著『砂漠のキツネ』の兄ルドルフが実在および生存していればよいのですが……。
戦争にまつわる史実は、それを紐解くわたしたちの「期待」や「願い」を裏切る悲しいことばかりですね。