『学べ、学べ、なお学べ』はロシア革命を起こした革命家・政治家・哲学者であるレーニンの名言です。
- レーニン主義で唱えるフレーズのひとつであり
- ソ連時代からつづく現在のロシアでもポピュラーな言葉のひとつ
です。
『学べ、学べ、なお学べ』をいろんな言語でいうとどうなる?
『学べ、学べ、なお学べ』はソ連だけでなく、ロシアになっても愛されつづけている名言です。
モチベーションが必要とされる状況でロシアの人々がいまもよく唱えています。
『学べ、学べ、なお学べ』はソ連とロシアで人気の名言!
『学べ、学べ、なお学べ』はソ連で大人気の言葉でした。
愛されたフレーズであり、大切な名言だったのです。
この言葉の書かれたポスターが、教室・幼稚園・学校・大学など、教育機関のあらゆる場所に貼られていました。
幼年期から老年期まで、すべてのソ連人のモットーでした。

2007年の様子。
写真:Martin Hawlisch
ライセンス:CC BY-SA 3.0
Wikipedia:『Ленинские фразы』より
この言葉はソ連の崩壊とともに消え去ったのでしょうか?
いいえ、とんでもない!
ロシアになった現在でも頻繁に使われています!
すべてのロシア人にとって「常識」とさえいえるほど『学べ、学べ、なお学べ』は日常になじんだ言葉なのです。
一般的すぎるほど一般的な知恵、知られすぎているほど有名な言葉なのですね。
『学べ、学べ、なお学べ』を使って起死回生!?
捕らわれの身となったリトアニア女性ダリア・グリンケヴィチウテの機転がさすがです。
参考:『Learn, Learn and Learn – A Popular Soviet Slogan | TravelBlogEurope.com』
『学べ、学べ、なお学べ』といったレーニンは何をした人?
「レーニンが何をした人?」ってのは話せばいくらでも長くなるので、このページではひとまずひとことで説明しておきます。
ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、1917年にロシアで革命を起こした男です。
肩書は革命家、政治家、哲学者。
ソ連の初代指導者です。
能力やらセンスの有無はここでは論じません。
率直にいって、彼はたしかにカリスマのひとりでした。
じつは『レーニン』はペンネームです。
本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフといいました。
レーニン豆知識としては「スターリンを部下に持っていたこと」があげられます。
ダークサイドな面では、社会主義にしたがわない敵勢力(と自分がみなした者たち)の弾圧を積極的におこなっていました。
ソ連の強制収容所『グラーグ(Gulag)』をとくに活用したのはスターリンですが、もともと設置したのはレーニンです!
さてここで歴史ブロガーとしてはレーニンの肖像写真を「ばいーん」っと貼りたいところですが、国によっては、扱いがかなりセンシティブな画像であるようです。
ちなみにレーニンの肖像写真には著作権的な問題はありません。
すでにパブリックドメインですからね。
しかし危ない橋はわたりたくないので、風景写真扱いになる画像を貼っておきますね!
めちゃくちゃ険しい表情が印象的です……!

2021年5月27日、ウクライナのオデッサ州にある農場公園『フルムシカ・ノヴァ(Frumushika-Nowa)』にて。
プライベート面では、レーニンに子供はいません。
妻はいました。
しかし妻のナデジダ・クルプスカヤはレーニンの死後、時間がたってから不審死を遂げています。
もちろん「妻のナデジダ・クルプスカヤはスターリンに暗殺された?」説も唱えられていますよ~。
きな臭さバリバリですね!
レーニンがチラッと「イイ人」っぽく出てくる漫画!
『オルフェウスの窓』はロシア革命の物語なので、レーニンについても否定的ではありません。
肯定・否定を論じられるほど出番がないともいえますが……。
『学べ、学べ、なお学べ』はわたしたちが考える意味と違う!?

社会主義国家の元祖親玉ともいえるレーニンが「しっかり勉強しろよ! 学びつづけることはマジ大事だぜ!!」といいのこして、しかも広めようとしていたらしいことは意外ですね~。
社会主義って、ふつうの人々はやる気をなくしていきます。
がんばってもがんばらなくても、ノルマさえ果たせばみんなと同じ扱いですからね。
がんばりに見合う”何か”がないと、ふつうの人はがんばれないものなのです。
それゆえ、社会主義では技術や文明の発展が資本主義と比べて遅れていきます。
さらに「民衆はおバカさんなほうがいいなー」って思っていること丸わかりの国家運営をソ連はしてきました。
民衆はお馬鹿さんがいい!?
ソ連が、国家にとって都合の悪い人々をシベリア送り――強制収容所送りにしていたことは有名ですね。
そういう場所に送られた人たちってどんな人だと思われますか?
わかりやすい革命野郎、テロリストたちばかり?
いいえ、そんなことはありませんでした。
ソ連の勢力圏(構成国)となった周辺国の人々も含め、ふつうのビジネスマンや学校の先生、たくさんの知識人・富裕層たちが弾圧されて強制収容所に送られていったのです。
まるで、知恵と知識を持つ人たちを一掃するかのように……。
その割に「学べ、学べ、なお学べ」がスローガン!
民衆はお馬鹿さんなほうが国家として都合はよいけど、「学び」がなさすぎるのも問題なのかもしれません。
勉強は、現代社会・資本主義では自主的におこなうもの。
ただしソ連では、スローガンは宣伝者によって与えられるもの。
「勉強しろ」っていうのは、より優秀に洗脳されろ! 国家にとって都合のいい人間になれ! ということなのです。
話の展開がホラーめいてきている気が……!
学ぶことの大切さをレーニンより前に訴えた人がロシア帝国にいた
『学べ、学べ、なお学べ』がレーニンの名言として残っているということは、学ぶことの大切さを訴えた最初の有名人がレーニンだったのでしょうか?
いいえ、じつはレーニンの前にそれをいった人は複数います。
少なくともロシア帝国内で3人の有名人が確認できます。
- ロシア帝国の教育大臣デリャーノフ
- 作家A.K.シェラー
- 劇作家チェーホフ
以上の3人です。
ただし上記の3人がいう「学ぶことの大切さ」は、社会主義における「勉強の推奨」とはニュアンスがだいぶ違うと思われます。
社会主義国家では、勉強の背景にある思想は国家によって与えられるものです。
ロシア帝国の教育大臣イワン・ダヴィドヴィッチ・デリャーノフ

パブリックドメイン。
ソビエトたちが倒した王朝こそロシア帝国です。
仇敵ともいえるそこの教育大臣が、ソ連の初代指導者レーニンと同様のメッセージを残しているとは皮肉なものです。
ロシア帝国の教育大臣を務めたイワン・ダヴィドヴィッチ・デリャーノフ(Иван Давыдович Делянов/Ivan Davidovich Delyanov)。
教育大臣としての在職期間は、1882年~1898年でした。
彼が『帝国ノヴォロシア大学(現在のオデッサ大学/Odesa II Mechnykov National University)』で学生たちに興味深い言葉を語っています。
Вы молоды, еопытны и в своих увлечениях часто забываете, что единственная и исключительная задача ваша, пока вы находитесь в этих стенах, это ? учиться, учиться и учиться… Я в последние годы не в меру поседел и состарился от огорчений, которые причиняют студенты наших университетов своим поведением
Ленинские фразы — Википедия
Google翻訳をしてみると……
あなたは若く、経験が浅く、趣味の中で、この壁の中にいるときの唯一の排他的なタスクがこれであることを忘れがちですか?
勉強、勉強、勉強… ここ数年、我が大学の学生たちの言動のせいで、計り知れないほど白髪になり、年をとってしまいました
わたしなりに意味を考えてみたところ、デリャーノフはこんなことをいいたいのではないでしょうか。

あなた(大学生)は若くて、まだまだ経験が少ない。
たくさんの楽しい趣味(誘惑)が周りにあるからといって、自分がすべきことを忘れているのではないか?
学生のすべきことは、勉強、勉強、勉強だ……。
ここ数年、わが大学の学生たちがあまり学ばないと聞いている。
そのせいでわたしは計り知れないほどの白髪になり、歳をとってしまった。
この言葉だけを見てみると、「めっちゃ勉強しいや!」と教育大臣らしいことをいっているイイ政治家に見えるデリャーノフ。
じつは彼は、その裏側で貴族階級以外の子供たちが中学校に進学することを禁止しています。
教育を受けるべきは選ばれた生まれの子供たち、人々だけ! ってことですね。
「下層階級に属する子供は特別な才能がある場合を除き、おのれの属する社会的環境から脱出すべきではない」と本人みずからいいのこしています。
のちにロシア革命を起こしたレーニンは「わがソ連では女料理人であっても国家を管理できる!」と、デリャーノフの言葉を引用したうえでしっかりたたいています。
レーニンも自分の意に沿わない人々は弾圧しまくっていたわけですが……。
そういう意味ではふたりは似ているのかも……?
作家アレクサンダー・シェラー(A.K.シェラー・ミハイロフ)

パブリックドメイン。
作家アレクサンダー・シェラー(Alexander Konstantinovch Sheller)も、ロシア帝国の人物です。
もともとはエストニアとポーランド系の生まれです。
活動期間は1850年代~1900年代ごろです。
数多くの文章を翻訳し、みずからもたくさんの物語・詩・エッセイを書き残しました。
だいたいは『A.ミハイロフ(A.Mikhaylov)』というペンネームを用いていました。
ですので本名と合わせて『A.K.シェラー・ミハイロフ(AK Sheller-Mikhaylov)』と呼ばれることもあります。
小説『Гнилые болота(英訳:Rotten Swamps/日本語訳:腐った沼地)』の第1部の第17章で、シェラーは書き残しています。
Я быстро падал в отметках учителей и уже не был первым по классу. Новая причина волнений и стараний не думать ни о чем и только учиться, учиться и учиться
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Гнилые болота』
Google翻訳をしてみると……
私はすぐに先生たちの評価に落ち、もはやクラスで一番ではありませんでした。
心配して何も考えずにただ勉強、勉強、勉強しようとする新たな理由。
こうしてみると、名言『学べ、学べ、なお学べ』をいった人はA.K.シェラーだといいたくなりますねえ……。
ロシア語版(=原語版)の『学べ、学べ、なお学べ』は「Учиться, учиться и учиться」と記載します。
A.K.シェラーの小説の一文そのまんまです。
劇作家アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

パブリックドメイン。
めちゃくちゃ知的イケメンな紳士ですね!
レーニンの名言『学べ、学べ、なお学べ』は、劇作家チェーホフの1896年の小説『Моя жизнь(日本語訳:わたしの人生)』の一説を引用したのが始まりだと考えられています。
Учиться нам нужно, учиться и учиться, а с глубокими общественными течениями погодим: мы ещё не доросли до них и, по совести, ничего в них не понимаем.
Ленинские фразы
Google翻訳するとこんな感じです。
私たちは勉強し、勉強し、勉強する必要がありますが、深い社会的傾向を待ちましょう。
これの元ネタは劇作家チェーホフの書いた小説『Моя жизнь(英訳:My Life/日本語訳:わたしの人生)』の第6章です。
小説『わたしの人生』はタイトルだけ聞くと「まさかチェーホフの自伝なの!?」と思ってしまいますが、自伝ではなくてフィクションです。
1896年に出版されたこの小説は、ポピュリズムとトルストイに夢中になった青年貴族が父親との関係を断ち切って絵画事業に生きるさまを描いています。
『学べ、学べ、なお学べ』の初出と掲載歴とは
『学べ、学べ、なお学べ』がレーニンによって初めて書かれたのは1899年の終わりごろだといわれています。
この言葉が書かれた著作『Попятное направление русской социал-демократии(直訳:ロシア社会民主主義の後退)』が世に出たのは1924年です。
よくある間違いに注意!
『学べ、学べ、なお学べ』の初出についてよくある間違いは、この言葉が【1920年10月2日におこなわれた『RKSM』の大会で発言された】というもの。
演説中に飛び出た名言!
う~ん、想像するだけで絵になるシーンですが、これは間違いなので注意!
RKSMはのちのコムソモール
RKSMとは、のちのコムソモールのことです。
コムソモールは[全連邦レーニン共産主義青年同盟(Всесоюзный ленинский коммунистический союз молодёжи,略称ВЛКСМ)]と訳されます。
ソ連の『マルクス・レーニン主義党』おもに共産党の青年組織で、いわゆる青年団の一種です。
おおむね15歳~35歳が団員の適正年齢とされました。
党の思想・方針の学習、宣伝活動、ピオネール(共産党少年団)の指導がおもな活動内容です。
1930年代のスターリンによる『クラーク(富農)撲滅運動』では、多くのクラークを逮捕しました。
逮捕された農民たちはもちろん強制収容所送りですよ!
『学べ、学べ、なお学べ』が書かれたのは1899年の終わりごろ
名言『学べ、学べ、なお学べ』の初出について詳しく見ていきましょう。
1899年の終わりごろに書かれたレーニンの著作『Попятное направление русской социал-демократии(直訳:ロシア社会民主主義の後退)』で、『学べ、学べ、なお学べ』は以下のように表現されました。
こちらがそのときに書かれた文章です。
В то время, как образованное общество теряет интерес к честной, нелегальной литературе, среди рабочих растёт страстное стремление к знанию и к социализму, среди рабочих выделяются настоящие герои, которые — несмотря на безобразную обстановку своей жизни, несмотря на отупляющую каторжную работу на фабрике, — находят в себе столько характера и силы воли, чтобы учиться, учиться и учиться и вырабатывать из себя сознательных социал-демократов, «рабочую интеллигенцию».
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Попятное направление русской социал-демократии』
Google翻訳すると以下のとおりです。
教育を受けた社会が正直で違法な文学への関心を失いつつある一方で、労働者の間で知識と社会主義への情熱的な欲求が高まっている一方で、真のヒーローは労働者の間で際立っています。
工場 – 彼らは自分自身の中に、勉強し、勉強し、勉強し、意識的な社会民主主義者、「働くインテリシア」から成長するための非常に多くの性格と意志を見出します。
読みやすくするため原文にはアンダーラインを、訳文には改行とアンダーラインを入れています。
この『ロシア社会民主主義の後退』は、1924年に雑誌『プロレタリア革命(Пролетарская революция)』第8号に掲載されました。
『ロシア社会民主主義の後退』はずいぶん時間がたってから世に出たんですねえ~。
だって執筆してから25年後……!
1899年の著作以外でもレーニンは、『学べ、学べ、なお学べ』と同様のことを訴える文章を書きつづけています。
時系列としての初出は1899年で、そのときの著作は1924年に出版……となります。
が、ソ連人やレーニンの支持者たちが実際に『学べ、学べ、なお学べ』の内容を知るのは1924年より前のことです。
レーニンの言葉として彼・彼女たちがこれを耳にしたのは、たぶん1922年ごろからです。
1922年のコミンテルン第4回大会の報告書で、レーニンが『学べ、学べ、なお学べ』と同様の趣旨のことを述べています。
雑誌『プロレタリア革命』とは?
『プロレタリア革命(Пролетарская революция)』はソ連でかつて発行されていた歴史雑誌です。
1921年~1941年にかけて発行されていました。
連続してずっと発行されていたわけではなく、途中で休刊している時期があります。
発行周期は不定期。
『プロレタリア革命』のおどろきは、その発行部数です。
最小のときはなんと5部!
まるで弱小サークルの同人誌部数を思わせる数字ですね。
なお、最大発行部数は35000部まで伸びました。
『学べ、学べ、なお学べ』の掲載と執筆歴、時系列
突然ですが、レーニンの死亡日は1924年1月21日です。
『学べ、学べ、なお学べ』は、レーニンの死後も繰り返してソ連のメディアに登場しています。
レーニンの死後、彼の部下だったスターリンが台頭し、ソ連の最高指導者となります。
スターリン治世下でも『学べ、学べ、なお学べ』の掲載はしばしばおこなわれていました。
読みやすくするため、以下の複数の引用文の原文にはアンダーラインを引いています。
訳文には改行とアンダーラインを入れています。
1896年の劇作家チェーホフの小説が元ネタ?
おそらくレーニンは、1896年出版の劇作家チェーホフの小説『Моя жизнь(英訳:My Life/日本語訳:わたしの人生)』第6章の一節から、『学べ、学べ、なお学べ』の元ネタとなる言葉を使用しています。
Учиться нам нужно, учиться и учиться, а с глубокими общественными течениями погодим: мы ещё не доросли до них и, по совести, ничего в них не понимаем.
Ленинские фразы
上記の文章をGoogle翻訳するとこんな感じです。
私たちは勉強し、勉強し、勉強する必要がありますが、深い社会的傾向を待ちましょう。
『学べ、学べ、なお学べ』そのものにかなり近いメッセージですね!
1899年執筆、『Попятное направление русской социал-демократии(直訳:ロシア社会民主主義の後退)』で
レーニンのオリジナル作としてはここが初出です。
ただし、この著作が雑誌『プロレタリア革命(Пролетарская революция)』第8号で世に出るのは1924年のこと!
上述した、1899年の終わりごろに書かれ、25年後に日の目を見た著作ですね。
重複しますがいちおう載せておきます。
こちらがそのときに書かれた文章です。
В то время, как образованное общество теряет интерес к честной, нелегальной литературе, среди рабочих растёт страстное стремление к знанию и к социализму, среди рабочих выделяются настоящие герои, которые — несмотря на безобразную обстановку своей жизни, несмотря на отупляющую каторжную работу на фабрике, — находят в себе столько характера и силы воли, чтобы учиться, учиться и учиться и вырабатывать из себя сознательных социал-демократов, «рабочую интеллигенцию».
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Попятное направление русской социал-демократии』
Google翻訳すると以下のとおりです。
教育を受けた社会が正直で違法な文学への関心を失いつつある一方で、労働者の間で知識と社会主義への情熱的な欲求が高まっている一方で、真のヒーローは労働者の間で際立っています。
工場 – 彼らは自分自身の中に、勉強し、勉強し、勉強し、意識的な社会民主主義者、「働くインテリシア」から成長するための非常に多くの性格と意志を見出します。
1922年11月、コミンテルン第4回大会にて
1922年11月におこなわれたコミンテルン第4回大会にて、レーニンは『学べ、学べ、なお学べ』と同様のことをいっています。
これはこの大会の報告書『ロシア革命の5年と世界革命の展望(Пять лет российской революции и перспективы мировой революции)』にまとめられています。
この大会のおよそ2年後(1924年1月21日)にレーニンは死去しています。
報告書は以下のタイミングで同年に2回、メディア掲載されているようです。
- 1922年11月15日『プラウダ(Правда)』第258号
- 1922年11月16日の第8号『共産主義インターナショナル第4回大会の速報(Бюллетень IV конгресса Коммунистического Интернационала)』
当時掲載された文章です。
Основаны советские школы, рабочие факультеты, несколько сотен тысяч молодых людей учатся, учатся, может быть, слишком быстро, но, во всяком случае, работа началась, и я думаю, что эта работа принесет свои плоды<…> Вся партия и все слои России доказывают это своей жаждой знания. Это стремление к учению показывает, что важнейшей задачей для нас является сейчас: учиться и учиться .
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Пять лет российской революции и перспективы мировой революции』
Google翻訳すると以下のようになります。
ソビエトの学校、労働者の学部が設立され、数十万人の若者が勉強しており、おそらく学習が速すぎますが、いずれにせよ、作業は始まっており、この作業は実を結ぶと思います<…>
党全体とロシアのすべての層は、知識への渇望でそれを証明しています。
この学習への欲求は、私たちにとって今最も重要なタスクが、勉強して勉強することであることを示しています。
プラウダって何?
コミンテルン第4回大会の報告書『ロシア革命の5年と世界革命の展望(Пять лет российской революции и перспективы мировой революции)』を掲載した『プラウダ(Правда)』は、1912年に設立されて現在もつづく老舗の新聞です。
『プラウダ(Правда)』の意味は「真実」です……!
最盛期の発行部数は1500万部を超え、世界一だったこともあるのです。
1923年3月4日、著作『少ないほどよい(英訳:Better less, but better/ロシア語:Лучше меньше, да лучше)』で言及
1923年3月4日の新聞『プラウダ(Правда)』第49号で、レーニンの著作『少ないほどよい』が掲載されました。
このタイトルの原題は『Лучше меньше, да лучше』。
英訳すると『Better less, but better』であり、日本語訳すると「少ないほどよい」となります。
率直にいって「怖いなあ」と感じるタイトルですね。
「少ないほどよい」って「みんなで平等に貧しくなろうよ」ってやつかな……なんて……。
当時掲載された文章は以下のとおりです。
Нам надо во что бы то ни стало поставить себе задачей для обновления нашего госаппарата: во-первых – учиться, во-вторых – учиться и в-третьих – учиться и затем проверять то, чтобы наука у нас не оставалась мёртвой буквой или модной фразой (а это, нечего греха таить, у нас особенно часто бывает), чтобы наука действительно входила в плоть и кровь, превращалась в составной элемент быта вполне и настоящим образом.
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Лучше меньше, да лучше』
Google翻訳すると以下のようになります。
私たちは、どんな犠牲を払っても、私たちの国家機構を刷新する任務を自分自身に課さなければなりません:
第一に、研究し、第二に、研究し、第三に、研究し、私たちの間で科学が死んだ文字や流行語にとどまらないことを確認します
(そしてこれは、罪を隠すものは何もなく、特に私たちによく起こります)、
科学が実際に肉と血に入り、完全かつ現実的な方法で日常生活の不可欠な要素に変わるようにします。
1926年に、1922年11月のコミンテルン第4回大会の報告書が再度掲載
1922年11月におこなわれたコミンテルン第4回大会にて、レーニンは『学べ、学べ、なお学べ』と同様のことをいっていましたね。
この大会の報告書『ロシア革命の5年と世界革命の展望(Пять лет российской революции и перспективы мировой революции)』は1922年11月に2回、メディア掲載されているのは前述したとおりです。
じつはその4年後となる1926年、またもやメディア掲載がおこなわれています。
今回の掲載先も前回と同じく新聞『プラウダ(Правда)』。
1926年1月21日『プラウダ(Правда)』第17号です。
掲載文は以下のとおりです。
Будут ещё лучше, если в дальнейшем будем учиться (это я вам гарантирую).
Ленинские фразы — Википедия
原出所:『Пять лет российской революции и перспективы мировой революции』
Google翻訳すると……
勉強を続ければもっと良くなるでしょう(私はあなたにこれを保証します)。
このときすでにレーニンは亡くなっています(1924年1月21日死去)。
シンプルないいまわしだからこそ「わたしはあなたにこれを保証する」が刺さる表現です……!
1959年に、コミンテルン第4回大会の報告書が4度目の掲載
1922年のコミンテルン第4回大会の報告書は、開催から37年後となる1959年にも雑誌掲載がおこなわれています。
このとき掲載された雑誌は『Вопросы истории КПСС(CPSUの歴史に関する質問)』。
『CPSUの歴史に関する質問』
『Вопросы истории КПСС(CPSUの歴史に関する質問)』は、日本語に訳したタイトルこそ「歴史に関する質問」ですが、ジャンルは科学雑誌です。
CPSU(ソ連共産党)中央委員会の下にある『マルクス・レーニン主義研究所(IML)』が発行していました。
1991年10月に雑誌名を『ケンタウロス』にあらためて、ソ連崩壊後も発行を継続。
しかしけっきょくは、1993年5月号をもって廃刊しました。
ちなみにスターリンの死亡は1953年3月5日。
レーニンの死後どころかスターリンの死後になっても『学べ、学べ、なお学べ』はメディアに登場していたんですね。
『学べ、学べ、なお学べ』はストレートに受けとれば資本主義・西側諸国にもうなずける名言

- 勉強内容・背景にある思想は国家が決めることだ!
- より優秀に洗脳されろ!
- より優秀に、国家にとって都合のよい人間になれ!
…………というメッセージさえ気にしなければ、『学べ、学べ、なお学べ』は資本主義国家のわたしたちにとっても「そのとおりだなあ」とうなずける名言ですね。
そう、勉強は大事なのです!
知ることで世界が広がり、視野が広がり、目の前で繰り広げられていることの意味がわかります。
だまされないために、思考停止しないために勉強は必要なのです~。
にもかかわらず、だますために勉強させるという裏の裏をいくソ連のスタイルはゾッとするものがありますね……!
そういえばわたしがかつて入れられていた某新興宗教でも「勉強」は推奨されていました。
教団の提示する、教団のための仏教哲学を学ぶものでしたよ。
教材や授業などもすべて教団側が設定してくれます!
試験があり、「一級」を取れば「すばらしい!」と周囲から尊敬されたものです。
わたしは「二級」どまりでした! 笑
『学べ、学べ、なお学べ』を意外な方法で利用する?